風早の浦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 17:05 UTC 版)
古代8世紀頃、大和朝廷が畿内と大宰府を結ぶ海路を整備し、瀬戸内海に幾つか港が出来た。その際にこの地には「風早の浦」という港が整備された。この港の名が書かれたものに、万葉集の中に遣新羅使の中にいた一人が読んだ歌がある。 わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり — 読人しらず、 沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを — 読人しらず、 立ち込める風速の浦の霧を別れを嘆く妻の発するため息と重ねあわせ、その溜息の霧を身にまといたいという、作者の妻への思いを詠んだ歌である。祝詞山神社にはこの歌碑が建立されている。 現在、安芸津町風早やJR呉線風早駅など地名として残っている。その裏山にあたる保野山では毎年秋期に「万葉火」が焚かれる。
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