領主座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/22 07:29 UTC 版)
「ヴェルヴァー」の名前はケルン大司教フィリップ1世フォン・ハインスベルク(ドイツ語版、英語版)の文書に初めて登場する。この文書は1179年4月12日の日付があり、ゾーストで作成されたものである。文書の内容は、エリングハウゼン修道院とエディンゲン修道院との間で2つの農場を交換するというものであり、本来ならばこの町とは関係のないものである。しかし証人として聖職者の後に貴族のコンラート・フォン・リューデンベルク、エーバーハルト・フォン・アルダイ、ヴィクボルト・フォン・ヴェルヴァーの名が記されているのである。これらの貴族は村に由来する名前を名乗っているので、ヴェルヴァーは1979年に文書でその存在が確認できてから800年祭を祝った。 ヴェルヴァー貴族家は、様々な史料に記述されているとおり、ヴェルヴァーブルクに住んだ。この城砦は現在のクロスターホーフやクロスターガルテン付近にあり、現存する壕や池でおそらく当時すでに囲まれていたと推測される。カッペンベルク修道院(ドイツ語版、英語版)の史料(日付なし。1185年から1203年の間)からヴィクボルトはヴェルヴァー貴族家一門の最後の後継者であったと思われる。この史料にはヴィクボルトとその妻・娘、その他の証人が挙げられている。息子がいれば記述されていたはずである。ヴィクボルトの娘はおそらくゾーストの代官であるエーバーハルト(1178年 - 1210年)に嫁いだと考えられている。ヴェルヴェブルクやヴェルヴァーの教会に対する守護権を含む遺産はゾーストの代官のものとなった。最後の代官となったヴァルターは、妻のゾフィーと連名でヴェルヴァー、クロティンゲン、シャイディンゲンの所領をラムスドルフ修道院に売却し、1240年にシトー会女子修道院建設の礎石を据えた。
※この「領主座」の解説は、「ヴェルヴァー」の解説の一部です。
「領主座」を含む「ヴェルヴァー」の記事については、「ヴェルヴァー」の概要を参照ください。
- 領主座のページへのリンク