静岡への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:26 UTC 版)
日清戦争(1894年-95年)とその後の紙需要増に応じて、四日市製紙は木材を原料に洋紙を生産する新工場の建設を立案する。工場用地は静岡県富士郡芝富村(現・富士宮市)の、富士川と芝川の合流点が選ばれた。同地が選ばれたのは、原木の入手が容易で、水力も利用可能であったためである。 ところが、新工場の建設工事を行っている最中の1897年(明治30年)8月15日、本社工場が全焼してしまう。火災保険がまだ普及していなかった時期で無保険であり、新工場建設に注力するために本社工場再建は断念された。こうして四日市製紙は本社を四日市に置いたまま、生産拠点を静岡県に移すこととなった。 新工場は本社工場焼失の翌年1898年(明治31年)12月1日に操業を開始した。新工場にはアメリカ製の抄紙機1台と亜硫酸木材パルプ (SP) 製造用の木釜、それに砕木パルプ (GP) 製造用のグラインダーが設置された。生産品は新聞用紙であった。 その後、芝川の新工場には1906年(明治39年)6月、1908年(明治41年)12月にそれぞれ1台ずつ抄紙機が増設されるなど、工場の拡張が順次行われていった。
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