興良親王
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興良親王(おきよししんのう / おきなが - 、嘉暦元年(1326年)[1]? - 没年不詳[2])は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女(親房の妹)である[3]。南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良[4]とも。
- ^ 『伊勢記』は、建武元年(1334年)6月、『南方紀伝』は同年3月とするが、延元・興国期の活動から見て疑問。安井は嘉暦2年(1327年)以前かと推定する。
- ^ a b 『関八州名墓誌』には、諸国遍歴の後に甲州都留郡に入り、正平19年8月14日(1364年9月10日)に病没したとあるが、その典拠は明らかでない。
- ^ 吹上本『帝王系図』・『古本帝王系図』などに「大納言(東宮大夫)師兼女」とあるのは誤写であろう。
- ^ 天野信景の『南朝紹運図』は「常良」にも作るとするが、中山信名はその誤りについて、「常良・陸良ニ作ルハ、常陸親王ト称シタマヒシ、常陸ノ二字ヲ分チテ、諸皇子ノ名字ニ良字ヲ用ヒシニ准シテ、構ヘナセシナリ」(『関城書考』)と論じている。「常良」の名は、あるいは恒良親王と音が通じるために用いられなかったのであろうか。
- ^ 『太平記』巻34「銀嵩軍事」。補任の年月日については確証がないが、『大日本史』『南狩遺文』は天皇の践祚した延元4年(1339年)と解している。『南朝系図』『系図纂要』が正平15年(1360年)4月とするのは太平記の文意にそぐわず、『伊勢記』は興国3年11月8日(1342年12月6日)と具体的な日付を掲げるもその典拠は明らかでない。
- ^ 『李花集』の詞書によると、この間に宗良親王が興良親王の許を訪問していたことが分かるが、これは両親王を父子とする俗説を生む原因ともなった。
- ^ こののち氏範も、兄弟を頼って北朝方に帰順。ただし後に再度南朝方として挙兵。
- ^ 『太平記』巻34「銀嵩軍事」。近世の俗書には、敗績して自害した(『七巻冊子』)とも、幽閉された後に殺害された(『南朝編年記略』)とも伝えている。
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