院内御廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 03:36 UTC 版)
2代藩主以降の墓は、正之の死より前の1657年(明暦3年)に、正之の次男保科正頼が死去した際、正之が若松城下の院内山を墓所として定めたことからはじまる。2代藩主保科正経は仏式により葬られ、3代藩主松平正容から9代藩主松平容保までが神式によって葬られた。 神式の墓は、亀形石を台座とした碑石が前面にあり、その奥の一段高い場所に灯篭が対に並び、その奥に表石、さらに奥に小高い墳丘を造りその上に八角形石組の鎮石が置かれている。御廟には歴代藩主のほかに家族や子孫の墓、拝殿がある。 2001年(平成13年)12月に史跡保護のため公有化を行い、史跡指定区域のほとんどが、会津松平家から会津若松市の所有になった。その後、保存・管理・活用基本計画、整備実施計画を策定し、2005年(平成17年)からはその年次計画に基づき、樹木の整備、き損箇所・危険箇所の復旧、便益施設の整備等の本格的な史跡環境整備に着手している。
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