関田駒吉とは? わかりやすく解説

関田駒吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 07:33 UTC 版)

関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年明治8年)2月15日 - 1939年昭和14年)11月5日[1])は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

来歴

1875年(明治8年)2月15日、高知県長岡郡大篠村(現在の南国市)に生まれた。初め宮地氏を称し、3歳にして父に別れ、醫家関田修斎に養われて、その家を継いだ。[2][3][4]夙に才学に秀で、海南学校より海軍兵学校に進学し卒業[5]24期)。明治30年10月、少尉候補生を命ぜられるとともに軍艦比叡乗組となり、後、松島や厳島に転じ、翌年4月1日海軍少尉に任ぜられ、尋いで5月10日正八位に叙せられた。宇治艦長、最上艦長、松江艦長、満州艦長などを歴任。のち少将を任官。退役後は郷土史の研究をした余生を過ごした。行年65歳。

駒吉は出身の海軍が象徴する船舶に興味を持ち、「廻船大法」が北条義時の命によって兵庫、浦戸、坊の津の代表が集まって貞応2年(1223年)に制定されたとする奥書を偽物とし室町期瀬戸内海水軍村上水軍の活動を示すものと論じた[6]。また、土佐南学伝統が南村梅軒が始祖とあるのに疑問を持ち、吸江寺の学統であるとし、それぞれの学説を発表した。

栄典

位階
勲章等

親族

・父:関田修斎

脚注

出典

  1. ^ 『官報』第3873号、昭和14年12月2日、p.50.NDLJP:2960367/10
  2. ^ 『[http:s//dl.ndl.go.jp/pid/7913045/1/36?keyword=関田修斎%E3%80%80三歳 土佐史談(69)]』土佐史談会、1939年12月、65頁。http:s//dl.ndl.go.jp/pid/7913045/1/36?keyword=関田修斎%E3%80%80三歳 
  3. ^ 『関田駒吉歴史論文集上』高知市民図書館、1979年12月。 
  4. ^ 高知縣史下巻』高知県史編集会、1951年9月、601頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2530424/1/309?keyword=関田修斎 
  5. ^ 『官報』第4342号、明治30年12月20日、p.277.NDLJP:2947629/3
  6. ^ 関田駒吉「廻船大法の奧書に就て」『土佐史談』第37号、土佐史談会、1931年、83-87頁。 
  7. ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
  8. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  9. ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
  10. ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。p16中段

参考資料

  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。




固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から関田駒吉を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から関田駒吉を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から関田駒吉 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関田駒吉」の関連用語

関田駒吉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関田駒吉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの関田駒吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS