関口氏心とは? わかりやすく解説

せきぐち‐うじむね〔‐うぢむね〕【関口氏心】

読み方:せきぐちうじむね

[1598〜1670]江戸初期柔術家関口流の祖。号、柔心。紀州藩仕えた


関口氏心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/02 18:35 UTC 版)

関口 氏心(せきぐち うじむね、慶長3年(1598年)? - 寛文10年3月7日1670年4月26日))は、日本江戸時代初期の柔術家関口新心流の開祖である。

は氏心、通称弥六右衛門柔心。号より一般に関口柔心と呼ばれる。

子は男子は関口氏業(八郎左衛門・第二代宗家)、関口氏英(萬右衛門・第三代宗家)、関口氏暁(弥太郎・第四代宗家。講談で有名。)、女子は義、家[1]。5人の子供の名前はそれぞれ、「八・萬・太郎・義・家」が入っており、これは、氏心が自身の先祖が源八幡太郎義家であることからである。

生涯

三河国長沢村(現・愛知県豊川市)出身。関口氏は今川氏の分家で、代々が宗家の今川家に仕えた。徳川家康正室築山殿が関口氏(瀬名氏)出身であったことから、桶狭間の戦い以降の今川氏の没落にともない今川氏真との関係が悪化し、松平氏徳川氏)に仕えるようになった。

氏心の父・関口氏幸は家康の嫡子松平信康の家臣である[2]

氏心は、幼少の頃より武芸・組討に優れていた。廻国修行の許可を得、林崎甚助より神夢想林崎流抜刀術、三浦義辰より三浦流柔術、そして長崎で拳法、を学んだ[3][要出典]


また、屋根から猫が落ちるものの1回転して着地し何事もなく歩いていくのを見て開眼し、自ら屋根から落ちてみるなどの修行の末高度な受け身を極めたという。これらの事を工夫しまとめ、柔術の流派である関口新心流を開いた。

はじめ松平飛騨守、次に本多甲斐守(本多政勝大和国郡山藩)、後1639年(寛永16年)に紀州徳川家の柔術指南役として徳川頼宣に仕えた[4]。関口新心流は紀州藩の御流儀となり、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつとなった。

老子」任信第78「天下莫柔弱於水 而攻堅強者莫之能勝 以其無以易之 弱之勝強柔之勝剛 天下莫不知莫能行」(天下に水より柔弱なるは莫し。而も堅強なる者を攻むるに、之に能く勝つこと莫し)から氏心がそれまで組討術、捕縛術等と呼ばれていた技術に「柔術」と名付け、それが広まったとする柔術名称起源説がある。[要出典]

関口柔心の登場する作品

小説

  • 魔界転生(山田風太郎)
  • 水の如くに(近衛龍春)

  1. ^ 『武芸流派大辞典』綿谷雪
  2. ^ 『蒲原町史』によれば、関口・瀬名各系譜を考証した上で、関口外記氏幸およびその父関口兼興は「北条ニ任フ」とされ、徳川家に仕官した事を裏付ける同時代の記録はない。『新編武蔵風土記稿』によれば、関口外記は後北条氏の家臣として武蔵国橘樹郡子安郷を知行した。
  3. ^ 現代では、武道史研究家の高橋賢が「陳元贇が武術を伝えたとするのは後世の虚構」とする説を唱えている。当時、中国人より武技を授かった伝説で権威付けをした流派は他にもあり、高名な文人である陳元贇の名を使ったとも考えられている。また、当時の陳元贇が書き記したものや、そのほかの記録に一切武術に関する事が無い。陳元贇と拳法、柔術の関係が言及されるのは後世の文献のみである。それらの文献では、陳元贇は故郷で「人を捕らうる術」を見聞きした、と三浪人に語った事になっており、教授したわけではなく、中国で見聞きした事を語った可能性が高い。
  4. ^ 『武芸流派大辞典』綿谷雪

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