野球留学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:57 UTC 版)
クラウンへの入団を拒否した江川は家族会議を開き、78年11月のドラフトでの指名を目指し、卒業後1年間は"野球浪人"する事を決めた。社会人野球入りは、入社後2年間は在籍しなければならないとの規則があり2年のプロ入りは長すぎるとして選択肢にはなかった。1年の野球浪人の過ごし方について、アメリカの大学の野球部に野球留学することにした。船田事務所を通じて南カリフォルニア大学の野球部と交渉し、同大にて練習生として参加することが認められた。同大野球部の監督のロッド・デドーはアメリカのアマチュア野球界の指導的地位にありトム・シーバーなど投手育成に定評があり、日米大学野球を通じて江川と面識があった。 78年3月、法政大学を卒業。4月にアメリカに渡り、同大での野球留学を始めた。規定により公式戦には登板できないが、オープン戦での登板やチームの練習に参加する事を通じてトレーニングを積むことになったのである。
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