鄭森 (ベトナム)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/19 00:23 UTC 版)
このページの名前に関して「鄭森」への改名が提案されています。 議論はこのページのノートを参照してください。(2016年6月) |
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています 。 |
鄭森 | |
---|---|
![]()
靖都王鄭森(『鄭家正譜』より)
|
|
各種表記 | |
クォック・グー: | Trịnh Sâm |
漢字・チュノム: | 鄭森 |
北部発音: | チン・シャン[1] |
音読み: | てい しん |
鄭森(チン・シャン、永佑5年2月9日(1739年3月18日) - 景興43年9月13日(1782年10月19日))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第10代当主。『大越史記全書続編』では鄭𣛧(木偏+森)と表記される。
生涯
景興28年(1767年)に父の明都王鄭楹が死去すると、跡を継いで朝廷から靖都王に封じられた。景興32年(1771年)、広南国の西山邑で阮文岳・阮文恵・阮文侶の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。景興35年(1774年)、広南阮氏の支配が揺らいだと見た鄭森は、西山阮氏と手を組んで軍を大挙南下させ、広南阮氏の本拠地だった富春を攻略した。阮福淳を南方に逃走させたものの、軍内に疫病が広まったために撤退せざるを得ず、広南の地の支配権は阮三兄弟の手中に帰した。
晩年は愛妾・鄧氏恵の讒言を信じて世子の鄭棕を廃し、庶子の鄭檊を世子に冊立した。
景興43年(1782年)に死去し、鄭檊が跡を継いだ。聖祖の廟号を追贈され、盛王と諡された。
家族
- 正室 楊氏玉歓
- 側室 鄧氏恵
- 子
- 長男 鄭楷(母は楊氏)
- 次男 鄭檊(母は鄧氏)
参考文献
|
|
- ^ 小倉貞男. 物語ヴェトナムの歴史 一億人のダイナミズム. 中公新書. p. 187. ISBN 4-12-101372-7.
- 鄭森 (ベトナム)のページへのリンク