逮捕、裁判、刑罰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 03:28 UTC 版)
「アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)」の記事における「逮捕、裁判、刑罰」の解説
致命傷となった2発目の爆弾を投げたフリニェヴィエツキは近隣の軍病院に運ばれた。取り調べに名前すら明かすことを拒み、数時間の苦痛の後、その夜に息を引き取った。最初に爆弾を投げ現場で取り押さえられたリサコフは、生き延びるために捜査に協力した。彼の証言で計画の関係者が割り出されたことにより、警察は組織の本部に踏み込んだ。踏み込みは暗殺の2日後の3月15日に行われた。ゲーシャ・ゲルフマンは逮捕され、ニコライ・サブリンは警察に何発か発砲した後、逮捕を免れるために自殺した。ミハイロフは翌日、短い銃撃戦の末に同じ建物で捕らえられた。ツァーリ警察は3月22日にソフィア・ペロフスカヤを、29日にニコライ・キバリチチを、4月14日にイワン・イェメリアノフを検挙した。 ジェリャーボフ、ペロフスカヤ、キバリチチ、ゲルフマン、ミハイロフ、リサコフの6人は、3月26日から29日にかけて開かれた元老院特別法廷で絞首刑を宣告された。国家に対する犯罪の名を以て、刑は1881年4月15日に執行された。ゲーシャ・ゲルフマンに対する刑は、彼女が妊娠していたため延期された。後にアレクサンドル3世が彼女を無期限のカトルガ(強制労働)に減刑している。彼女は1882年1月、出産後の合併症で死亡した。生まれた娘もほどなく亡くなっている。 イェメリアノフは翌年、終身刑と強制労働を言い渡されたが、20年後にアレクサンドル3世より恩赦を受けた。ヴェラ・フィグナーは、オデッサで暗殺計画を指揮していた1883年2月10日に捕らえられた。1884年には絞首刑を宣告されたが、後に無期懲役に減刑された。彼女の母親が死に際し、最後の皇帝ニコライ2世に嘆願書を送ったことにより、やはり20年後に釈放された。
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