身分闘争とイタリア半島の統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/07 03:16 UTC 版)
「共和政ローマ」の記事における「身分闘争とイタリア半島の統一」の解説
相次ぐ戦争の中で、戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求するに至った。いわゆる「身分闘争」の開始である。貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利を擁護する護民官を設置し、十二表法で慣習法を明文化した。さらに、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法で執政官の1人をプレブス(平民)から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法によって、トリブス民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。これにより、身分闘争は収束に向かった。 一方で、ローマはイタリア半島各地の都市を制圧していった。イタリア半島南部にはアッピア街道が建設され、南部遠征の遂行を助けることになった。この後も、ローマは各地に向かう交通網を整備し、広域に亘る支配を可能にしていった。紀元前272年、南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一を成し遂げた。
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