賞金の大幅増
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
ミゴリが勝った時の凱旋門賞の1着賞金は約520万フランで、第二次世界大戦前に比べると額面では5倍になっていたが、フランス・フランの価値は戦後も下がり続けており、魅力的な額とは言えなかった。競合するキング・ジョージ6世ステークスはこれよりも賞金が高かった。 凱旋門賞の価値を本来の意図通りにするためには賞金の大幅増が不可欠と考えた主催者は、国営宝くじ(Loterie nationale française)との何ヶ月にも渡る長い交渉の末に、宝くじ馬券を利用して賞金の資金源とすることに成功した。こうして、1949年7月に発表された1着賞金額は2500万フランで、生産者賞や登録料も合わせると約3000万フランとなった。この結果、馬齢重量の競走としてはヨーロッパでもっとも高額賞金の競走となった。この効果はめざましく、条件の発表が遅かったにもかかわらず、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、アメリカ、アルゼンチン、アイルランドから合わせて120頭の出走の登録があった。この中にはアメリカクラシック三冠馬アソールト(Assault)や、アルゼンチンの最強牝馬エンペニョーサ(Empenosa)の名もあった。イギリスからは二冠馬のニンバス(Nimbus)とオークス馬のムシドラ(Musidora)が登録したし、イタリアやベルギーからも最強馬が登録した。最終的に出走したのは28頭で、これは過去最多の出走頭数となった。この年勝ったのはブサックのコロネーションだった。 主催者は、この世界的な大競走の誕生を内外にアピールするために、レースの前夜にロワイヤル通りのマキシム(Maxim's)で「競馬・生産界の晩餐会」を開催した。
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