議事堂のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 16:10 UTC 版)
「ドイツ国会議事堂放火事件」の記事における「議事堂のその後」の解説
全権委任法の成立後、議会制民主主義は事実上崩壊したことから国会はほとんど開かれることが無くなり、また開会時もクロルオーパーを仮の議場に使用した。そのため焼け落ちた国会議事堂は修復されず放置された。第二次世界大戦中には連合軍による空襲やベルリンの戦いで攻撃目標となり、更に破壊が進んだ。 戦後は連合国軍の占領する西ベルリンに位置したため、西ドイツは臨時首都のボンに連邦議会を置いて国会議事堂としては使わず、また東ドイツの人民議会も使用することができなかったため、国会議事堂は単なる廃墟と化していた。1964年に内部を利用できるよう部分修復されたが、東側を刺激するという理由で議事堂としては使われず、主に展示会場として使用された。建物が国会議事堂としての役割を再び果たすようになるのは、1990年のドイツ再統一によってベルリンが再びドイツの首都となった後、大規模修繕が完了した1999年にボンから連邦議会が移転してからである。
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