託麻原での奮戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:41 UTC 版)
天授2年/永和2年(1376年)夏に親王は菊池賀々丸(後に武興・武朝)に奉じられて肥前国府(佐賀市)へ出陣。幕府方の今川貞世(了俊)の軍と対陣するが交戦には至らず、この間阿蘇氏に令旨を発給して危急に備えている。両軍はそのまま年を越し、天授3年/永和3年(1377年)1月国府近くの千布・蜷打で一戦を交えた(肥前蜷打の戦い)。親王を奉じる菊池軍は一族を率いて奮戦するが、結局大敗を喫して多数の戦死者を出すに終わり、征西府の退勢がいよいよ明らかとなった。戦禍を免れた親王と賀々丸は筑後を経て隈部城に退却したが、今川軍はこれを追撃して肥後に侵入、さらに8月の鎮西合戦勝利に乗じて城の攻略を画策した。天授4年/永和4年(1378年)9月親王は武興に奉じられて託麻原(熊本市東部)で再び今川軍と一戦を交える(託麻原の合戦)。菊池軍は一時苦戦して武興も負傷したが、親王自ら陣頭に立って敵陣に突撃。これに鼓舞された菊池軍の奮戦で、遂に今川軍を敗走させた。もっともこれは南朝方が勝利を収めた最後の大戦となり、征西府の威勢も長くは続かなかった。
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