西欧と正教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
中世において、カトリックを奉じる西欧と正教を奉じるギリシャ人らの間には同じキリスト教を信じると言えども隔たりが大きかった。それはオスマン帝国が西へ伸長し始めた15世紀前半においても教義と典礼をめぐって争っていたため、協力関係が築けず、また、正教徒である民衆の間にも違和感が存在していた。オスマン帝国はこれを利用し、ラテン人らが支配していた地域を占領した際にはラテン人、カトリック教徒らには厳しい対応を行ったが、正教徒らに融和的姿勢を持った。コンスタンティノープル総主教を保護したのもその一環であった。 しかし、16世紀から17世紀にかけて、西欧で宗教改革が発生すると西欧とギリシャとの対立は徐々に変化し始めた。特に宗教改革に対抗して行われた反宗教改革で生まれたイエズス会がコンスタンティノープル総主教に働きをかけた。これらの働きかけの影響を受けたコンスタンティノープル総主教の中には東西両教の会合に親和性を示す者まで現れるほどであった。 さらにプロテスタントの発生もこれに影響を与えた。コンスタンティノープル総主教に幾度と無く選ばれたキリロス・ルカリスはカルヴァン派の影響を受けた上で教会改革を試みた。これはプロテスタント派であるオランダ、イギリスが支持を与えたが、イエズス会とフランスの横槍によってムラト4世によって処刑された。
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