西松唯一
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西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、 明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。
生涯
1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。
1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。
卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。1918年にはイギリス、アメリカ、フランスの各国に留学する。火薬学科の整備発展に尽力し、停年退職後は名誉教授となる。1945年には工業火薬協会名誉会員にも推され、名実ともに「火薬博士」として知られた。1951年9月16日、70歳で死去。墓所は多摩霊園[1][2]。
人物
少年時代より秀才の誉れ高く,磊落な気性の持主でもあった。歴史に関心深く、愛郷心も強く,旧宅跡を児童遊園地として公開したり、大森彦七受難の碑や南朝の忠臣重見通勝の碑を建立するなどした[3]。
家族
脚注
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