藤原顕保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 05:59 UTC 版)
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| 時代 | 平安時代後期 |
| 生誕 | 嘉承元年(1106年)以前? |
| 死没 | 天養2年4月4日(1145年5月4日) |
| 官位 | 正四位下、播磨守 |
| 主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
| 氏族 | 藤原北家魚名流 |
| 父母 | 父:藤原家保、母:藤原宗子(藤原隆宗の娘) |
| 兄弟 | 顕保、家成、家長、保説、保成、家房、家保、宗保、頼保、覚芸、藤原忠宗室、源雅通室 |
| 子 | 宗頼、頼実、顕修 |
藤原 顕保(ふじわら の あきやす、生年不詳 - 天養2年4月4日〈1145年4月27日〉)は、平安時代後期の公家。藤原北家魚名流、参議・藤原家保の長男。官位は正四位下・播磨守。
経歴
参議・藤原家保の長男として誕生。生年は不明だが、同母弟の家成が嘉承2年(1107年)生まれのため、嘉承元年(1106年)かそれ以前と推定される。
白河院政期後期から鳥羽院政期前期にかけて、土佐守・美濃守と受領を歴任。この間の大治5年(1130年)正四位下に叙せられている。保延元年(1135年)修理大夫に任ぜられると、保延3年(1137年)皇后宮権亮を兼ねるなど、一時京官も務めた。
保延6年(1140年)ごろ越前守に任ぜられると、康治元年(1142年)ごろ播磨守と、鳥羽院政期中期には再び受領を歴任している。
天養2年(1145年)播磨守在任中に卒去。顕保はよく人の悪口を言っていたため、天罰が下り口がただれて食事がとれずに亡くなったという(『台記』)[1]。
官歴
- 永久5年(1117年) 3月12日:見土佐守[2]
- 天治元年(1125年) 12月28日:美濃守[3]
- 大治4年(1129年) 3月29日:復任[4]
- 大治5年(1130年) 7月2日:正四位下[4][5][6]
- 天承元年(1131年) 12月27日:土佐守[7]
- 保延元年(1135年) 5月5日:修理大夫[4]
- 保延3年(1137年) 2月5日:兼皇后宮権亮(皇后・藤原泰子)[4]
- 保延6年(1140年) 2月29日:見越前守[8]
- 永治元年(1141年) 日付不詳:辞守[9]
- 康治元年(1142年) 12月13日:見播磨守[10]
- 天養2年(1145年) 4月4日:卒去[6][5]
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
- 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年
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