荒木系ヴァイタスコープ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 02:17 UTC 版)
「ヴァイタスコープ」の記事における「荒木系ヴァイタスコープ」の解説
日本で最初にヴァイタスコープを輸入公開したのは、大阪心斎橋で雑貨商を営む荒木和一である。荒木は1896年にアメリカに渡航し、シカゴでヴァイタスコープを見たことから、それを購入して日本に持ち込んだ。日本にヴァイタスコープが到着した正確な日付は不明だが、映画史研究家の塚田嘉信は1896年12月に到着したと推定している。荒木は大阪電灯の技師とともにヴァイタスコープの操作方法を研究し、動かすためには直流電気が必要であることが判明したが、大阪には直流電気を扱う場所がほとんどなかった。技師が方々を探し回り、ようやく難波の鉄工場に直流のダイナモがあるのを見つけ、そこで試写を行った。稲畑のシネマトグラフよりも先に輸入された荒木系ヴァイタスコープは、本来ならばシネマトグラフよりも早い1月に上映する予定だったが、1月11日に英照皇太后が崩御し、服喪として1ヶ月間歌舞音曲が自粛されたため、初公開に向けて動くことができなくなった。荒木曰く「そんなわけでグズグズしている内」に、喪明け早々の2月15日にシネマトグラフが南地演舞場で初公開され、結果的に日本初の映画上映の座を奪われる形となった。 荒木系ヴァイタスコープの初公開は、シネマトグラフの初公開に遅れること1週間、1897年2月22日から24日まで大阪の新町演舞場で「蓄動射影会」と称して行われた。会場の手配を担当した上田布袋軒によると、新町演舞場は当初貸し出しに難色を示していたが、2月4日に起きた三光丸沈没事故の遭難者遺族の義捐を名目に興行することで会場側を説得したという。なお、上田は荒木系ヴァイタスコープ興行での口上役も任されており、その後も弁士としての活動を続けたことから、日本初の活動弁士と言われている。新町演舞場での興行を終えると、3月1日から14日まで名古屋の末広座、3月15日から東京の浅草座(楽日は不明)、3月22日から26日まで大阪の道頓堀朝日座で上映した。その後、荒木はヴァイタスコープを名古屋の樋口虎澄に譲渡したが、それ以後の行方は不明である。
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