若林城前史
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若林城の北と東には南小泉遺跡が広がっており、後の若林城が築かれる地区は同遺跡の一角とみなすことができる。南小泉遺跡には古墳時代から集落が発達しており、大型の前方後円墳である遠見塚古墳が造られた。後に若林城内になる場所には、若林城内古墳という小さな円墳が造られた。下って平安時代には城内とその周辺に集落があった。 戦国時代には小泉と呼ばれ、国分氏が城を築き、周りに町ができていた。江戸時代の地誌『仙台鹿の子』は、国分盛重が小泉に要害を築いて千代城(後の仙台城)から移ったという。やはり江戸時代の『仙台領古城書上』は、小泉邑に二つの古城があったと伝える。それによれば、一つは東西40間、南北38間、結城朝光の末である結城七郎が城主となり、天文年中には国分盛氏の居城であった。もう一つは東西58間、南北38間、城主は堀江伊勢で、国分盛重と、堀江の子孫である堀江平九郎も居したという。現代には、2つの城は別の時代の同じ城ではないかという説、古城書上の2城と国分氏の城は別とする説もある。つまり、戦国時代に小泉にあった城の数について、1、2、3の3つの説がある。。
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