自由独立州の歴史
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「スコット自由独立州」の記事における「自由独立州の歴史」の解説
1861年6月4日、ハンツヴィルの郡役所の階段上で、アンドリュー・ジョンソン上院議員(後の合衆国大統領。民主党議員で彼自身も奴隷所有者だったが、南北戦争では合衆国とエイブラハム・リンカン大統領を支持した)が演説を行った。「……(南部の分離主義者たちが)最も恐れているのは、北部の自由人ではなく、南部の自由人なのだ……」。ジョンソンの演説の4日後、テネシー州で連邦からの離脱の是非を問う住民投票が行われた。結果的に離脱が決定し、テネシー州は南部連合に組することになるが、スコット郡の住民に限ると連邦残留541票、離脱19票という逆の結果で大差がついていた。同年のうちに、スコット郡総会は全会一致でテネシー州からの分離を可決した。この決議を受け、急造りの「スコット独立州」(Independent State of Scott)が結成された。これにより、スコット郡は北部の合衆国に忠実な飛び地となった。 「くそったれのテネシー州が連邦から分離できるっていうなら、スコット郡だってテネシー州から分離できるんだ。」――地元の農家 “ ”
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