自民党内での台頭
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金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。 1993年8月、細川内閣発足によって自民党は下野し、野党となる。ほとんどの自民党議員は長年与党議員だったため、野党的な追及型の国会質問などができる議員は少なかった。そんな中、野中は京都府議会議員時代の長期にわたる野党経験を生かし、東京都議会議員として美濃部革新都政に厳しく対峙した深谷隆司と共に予算委員会で細川内閣を追及し、党内で実力を認められるようになった。細川批判で名を挙げた野中は細川護熙の首相退陣の際は「細川さんはなんですぐ辞めちゃったんだろう。あんな疑惑で辞めるとは思わなかった。こっちは攻撃材料を色々と作っていたのに」とぼやいたという。特筆すべきは、昭和45年2月10日付けの国税庁長官の全国の税務署長宛て通達による「同和控除」である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追及した(これは後に野中が自治大臣になったときに、部落解放同盟上杉佐一郎委員長と交渉を行い、国税庁も解消の通達を行うこととなる)。
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