背徳政治と苛烈な粛清、そして失脚
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「燕山君」の記事における「背徳政治と苛烈な粛清、そして失脚」の解説
しかし時がたつにつれて、治世4年後から燕山君の悪行が目立ち始めた。燕山君は3度にわたって功臣に対する粛清事件(士禍)を引き起こした。また戚臣の任士洪(朝鮮語版)と宦官(内侍)の金子猿(朝鮮語版)がそれぞれそそのかして、生母尹氏誅殺に関係した者を捕らえて処刑している(甲子士禍)。 燕山君は全土から女性を徴発し、世祖が建てた円覚寺(現在のタプコル公園)を王の享楽の場である掌楽院に変え、最高学府の成均館も妓生らとの遊興の場に変えた。燕山君は多数の妓生を引き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑した。 臣下たちの怒りが頂点に達した結果、彼らの確執と離反を招く結果となり、1506年9月2日に勲旧派勢力の朴元宗、および成希顔(朝鮮語版)、柳順汀(朝鮮語版)らが企てた宮廷クーデターによって燕山君は失脚し、江華島に配流、王位を剥奪されて燕山君に封じられた。この時任士洪、金子猿、更に燕山君の寵姫である張緑水は反対勢力の手によりそれぞれ斬首刑となっている。また正妃慎氏も同時に廃位され、残された王子たちは全て処刑され、更に残された王女たちは全て奴婢にされた。 配流からおよそ2ヶ月後、燕山君は数え年の31歳(満30歳)で死去した。後世の第15代国王・光海君と同様、廃された王であるため、諡号はない。後継には成宗の次男で燕山君の異母弟である晋城大君懌(即位して中宗)が推戴された。
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