終了・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:42 UTC 版)
宝鈔についての最後の記述は、明政府の行政法令集『大明会典』にあり、1489年(弘仁2年)に宝鈔を売買した場合の処罰が書かれている。これは宝鈔を骨董品の商品にすることを禁じるのが目的だったと推測されている。 国外からの銀の流入は、明の貨幣制度を大きく変えた。ポルトガルとスペインが中国に到達し、中国の物産を買うために大量の銀を支払った。ポルトガルは、マカオを拠点とする南蛮貿易で倭銀と呼ばれる日本産の銀を運んだ。スペインはガレオン貿易やマニラ・ガレオンと呼ばれる定期航路で、中南米のポトシやサカテカスで採掘した銀を運んだ。明政府も銀による納税を認め、一条鞭法という銀本位制を定めることになる。 明の次に中国を支配した清王朝は、明の紙幣政策が失敗した点を参考として、紙幣を発行しなかった。民間では、重量がかさむ銅銭や銀貨を運ぶ代わりに金融業者の銭荘が預かり証を発行するようになり、銭票と呼ばれて市場でも流通した。清政府が紙幣を発行するのは、アヘン戦争や太平天国の乱などの相次ぐ戦乱で歳入不足に陥った1853年のこととなる。
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