細倉当百について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
詳細は「細倉当百」を参照 細倉当百は細倉鉱山が一時期の沈滞から脱した後の、江戸時代末期の文久年間に細倉鉱山で精錬された鉛を用いて鉱山内で鋳造され、使用された鉛製の地方貨幣である。形は正方形をしており、中心にはやはり正方形の穴が開いている。一辺は約61ミリ、穴の大きさは一辺約10ミリである。厚さは約5ミリあって、重量は約175グラムとかなり重い貨幣であった。 細倉当百の表面には「細倉當百」と書かれ、裏面には藤原秀衡の花押を模したと伝えられる秀の字の花押と、刻印が押されていた。軟らかい鉛製の貨幣であるため、現在まで残っている細倉当百の多くの刻印は摩滅してしまっているが、数種類の刻印が確認されていることから異なった刻印の細倉当百は発行年度も異なっているものと推定されている。 藤原秀衡のものと伝えられる花押が細倉当百に用いられているのは、奥州藤原氏最盛期であった藤原秀衡の栄華と、奥州藤原氏は北上山地から産出される金によって財力を蓄えていた故事により、いつしか秀衡と鉱山が結び付けられ、鉱山の発展を願い秀衡の「秀」の花押が細倉当百に用いられたものと伝えられている。 古文書から幕末期の細倉鉱山では、細倉当百以外にも紙幣や手形が使用されていたことが明らかになっている。細倉当百は細倉鉱山内での日用品の売買に使用され、通用は鉱山内に限るとされたが、実際には地元の栗原郡のみならず磐井郡内でも流通していたことが確認されており、細倉鉱山から相当広範囲に流通していたことが明らかになっている。これは幕末になって細倉鉱山の生産力が回復していたことを示している。
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