竹越竹代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 竹越竹代の意味・解説 

竹越竹代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 14:34 UTC 版)

たけこし たけよ
竹越 竹代
生誕 明治3年10月12日(1870年11月5日)
備前国
死没 (1944-12-19) 1944年12月19日(74歳没)
東京府(現・東京都
墓地 多磨霊園5-1-21
国籍 日本
出身校 山陽女学校、梅花女学校
職業 女性記者、婦人運動家
宗教 キリスト教 仏教
配偶者 竹越與三郎
中村秀人(父)、中村静子(母)
テンプレートを表示

竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日1870年11月5日)-昭和19年(1944年)12月19日)は、明治時代婦人運動家である。日本初の女性記者として『國民新聞』で取材し記事を書いた[1]

生涯

明治3年(1870年)10月12日に岡山に生まれる[2]。父は岡山藩の士族である中村秀人だったが,竹代が9歳時に死去。母である中村静子に育てられた[3]

女学校入学後の明治16年(1883年)に金森通倫から洗礼を受け、キリスト教徒となった。岡山の山陽女学校を卒業し、明治20年(1887年)に大阪の梅花女学校に入学した[1]

明治22年(1889年)に、新聞記者の竹越 與三郎と結婚した。同年に,夫のとともに徳富蘇峰民友社に招かれて上京し、明治23年(1990年)の『國民新聞』の創刊に参画した。同紙では日本初の女性記者としてインタビュー記事などを執筆した。竹代が新聞記事を執筆していたのは明治25年(1892年)末までの2年間程度で,新聞の他にも『家庭雑誌』にも寄稿していた[3]

上京後すぐに東京婦人矯風会(のちの日本基督教婦人矯風会)の会員となった。明治26年(1993年)には幹部となり,機関誌『婦人矯風雑誌』の編集や一夫一婦建白書の取りまとめなどを行った。同会の初代会長である矢嶋楫子らと廃娼運動や禁酒禁煙運動を展開した[4]。明治25年(1892年)に万国婦人矯風会本部のM・A・ウエストが来日し,18都市で演説会を開いたが,金沢を遊説中に死亡した。竹代はこの遊説に同行し,『ウエスト女史遺訓』という本を編纂した[3]

夫の竹越與三郎は1902年から衆議院議員を5期務め、その後,貴族院議員枢密顧問官となった。竹代は内助に徹した[1]

晩年は仏教徒になり、在家で仏道修行にはげんだ。昭和19年(1944年)12月19日に亡くなった[1]

編著書

脚注

  1. ^ a b c d 『竹越竹代の生涯』大空社、1965年。 
  2. ^ 『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496 
  3. ^ a b c 江刺昭子『女のくせに:草分けの女性新聞記者たち』インパクト出版会、1997年1月25日、24‐54頁。 
  4. ^ 『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版、1986年。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  竹越竹代のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹越竹代」の関連用語

竹越竹代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹越竹代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹越竹代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS