窪田吉正とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 窪田吉正の意味・解説 

窪田吉正

(窪田正勝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 00:35 UTC 版)

 
窪田吉正
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文10年(1541年
死没 元和8年6月18日1622年7月26日
別名 正勝(諱)、大隅、助丞
戒名 常庵
墓所 高乗寺(東京都八王子市
主君 武田信玄勝頼徳川家康秀忠
氏族 清和源氏井上氏流窪田氏
父母 窪田直重(正長)
兄弟 吉正、正重
兵左衛門、行重、正明、八兵衛、正久
テンプレートを表示

窪田 吉正(くぼた よしまさ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将武田家旗本より徳川家旗本。甲州九口之道筋奉行、後に八王子千人同心9人の千人頭の内の一家。

略歴

最初は武田氏に仕え、目付役を務めて槍隊を指揮した。武田信玄陣立書にて窪田文左衛門尉として横目衆として確認できる。天正10年(1582年)武田氏没落後は徳川家康に仕え、甲斐の本領と新領給与を含めて300貫文余を領し、また武田家臣時代の同心も引き続き支配を認められる。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いに従軍。天正18年(1590年徳川氏関東に移ると、北条氏照の残党に備えて八王子に移り、旧領は浅野長政領となった。

慶長5年(1600年八王子千人同心を率いて関ヶ原の戦いに従軍する。その際、旗役だった村越直吉に先んじて長柄隊を前進させるが、家康は武田家由来の吉正の行いを認めたという。
子孫は八王子千人頭の10家の内の一家として幕末まで旗本として徳川幕府に仕えた。

その他

八王子千人同心千人頭には窪田家が2家あり、井上流窪田氏三枝窪田氏がある。両家とも明治まで存続した。 徳川家旗本にも窪田が多数確認され、江戸時代後期の講武所頭取・窪田清音は井上流の系統[1]

参考文献

関連項目

関ヶ原本戦の配置

脚注

  1. ^ 『寛政重脩諸家譜』第2輯,p316,國民圖書,1923



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「窪田吉正」の関連用語

窪田吉正のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



窪田吉正のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの窪田吉正 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS