福田隆 (美術家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 00:24 UTC 版)
ふくだ たかし 福田 隆 | |
---|---|
生誕 |
1917年 岩手県遠野市 |
死没 | 1991年 |
国籍 |
![]() |
出身校 | 日本大学芸術科 |
著名な実績 | 染絵、商店の看板や暖簾 |
影響を受けた 芸術家 | 中井汲泉 |
福田 隆(ふくだ たかし、1917年 - 1991年)は、岩手県出身の染絵作家、美術教師である。
来歴
1917年(大正6年)、岩手県遠野市に生まれ、翌年に家族で盛岡市に移り住んだ。1930年、旧制盛岡中学校[注釈 1]に入学し、絵画部に入部。その当時に京都から赴任していた中井汲泉の薫陶を受けた。1939年に日本大学芸術科に進学し油絵を専攻したが、戦争のため繰上げ卒業となり、軍に入隊。満洲で終戦を迎えたのち、ソビエト連邦によりシベリアに抑留され、日本に帰国できたのは1948年であった。盛岡に戻ると実家のある法泉寺(現在の 北山)に居住し、盛岡高等学校[注釈 1]の美術科の教員職に就いた[1]。
1978年に定年を迎えた後も岩手県立盛岡第三高等学校で美術の講師を続けた。1982年には、教え子の勧めで開運橋通にあった、いとう酒店の2階にギャラリー兼アトリエ「青柿坊」[注釈 2]を開き、芸術家や著名人[注釈 3]と交流を楽しんだ。当時の店舗は道路拡幅のため解体され現存しないが[2]、いとう酒店の店主の義理の娘により、店名を譲り受けた喫茶店「青柿坊 -c’est si bon-」が近隣に営業している[3]。
作品
教職の傍ら、本の装幀や彫刻などを製作し、俳人や随筆家としての顔も持ったが、後年は汲泉の影響を受け、布に糊をのせて地を染める、染絵が創作の中心となった[1]。岩手県立盛岡北高等学校[4]や岩手看護短期大学[1]の校章・学章も手掛けた。「ひげの先生」と呼ばれて慕われ[5]、行きつけの店などから看板や暖簾などの制作を頼まれた。これらは盛岡市内のいくつかの商店やホテルなどで見かけることができる。当初はロシア語の「F」をモチーフにしたサインを使っていたが、いつからか独楽を図案化したサインを入れるようになった[1]。
2023年には盛岡てがみ館[6]と深沢紅子野の花美術館[5]で特別展が開かれ、同時期に紺屋町周辺で行われたスタンプラリーでは過去に福田が制作したスタンプの図案が使用された[7]。
著書
- 福田隆『しゃぼんだま随想』「しゃぼんだま随想」出版発行人の会、1993年。[8]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e (盛岡ガス 2013, pp. 1–2)
- ^ a b “幸遊記NO.375 「福田隆の青柿坊・伊藤酒店」”. 開運橋のジョニー (2018年3月26日). 2025年3月26日閲覧。
- ^ “シックで落ち着く憩いの場【青柿坊 -c’est si bon-】”. シニアポケット (2021年6月27日). 2025年3月29日閲覧。
- ^ 校歌・校章(岩手県立盛岡北高等学校)
- ^ a b “愛称は「ひげ先生」 母校の美術教師時代の染め絵作品も 盛岡で福田隆展”. TBS_NEWS_DIG(IBC岩手放送). (2023年4月23日) 2025年3月29日閲覧。
- ^ “人柄にじむ作風 盛岡市で美術家・福田隆さんの染め絵や年賀状集めた特別展”. (2023年4月12日) 2025年3月29日閲覧。
- ^ “盛岡てがみ館で「福田隆」展 スタンプラリーに合わせ、染め絵作品など展示”. 盛岡経済新聞. (2023年5月12日) 2025年3月29日閲覧。
- ^ しゃぼんだま随想(国立国会図書館サーチ)
参考文献
- 「街なかで、染絵作家・福田隆さんの作品と人柄にふれる」(PDF)『flamme』第28巻、盛岡ガス、2013年9月1日、1-2頁、2025年3月26日閲覧。
- 福田隆 (美術家)のページへのリンク