中井汲泉
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なかい きゅうせん
中井 汲泉 |
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生誕 | 中井 政治郎 1892年7月1日 京都府京都市上京区 |
死没 | 1970年8月24日(78歳没) |
国籍 | ![]() |
出身校 | 京都市立絵画専門学校 |
著名な実績 | 南部絵、染絵、郷土玩具 |
メモリアル | 画碑(法泉寺) |
影響を受けた 芸術家 |
竹内栖鳳 |
影響を与えた 芸術家 |
歌川豊国[1]、福田隆、村田三樹二郎[2] |
中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 1970年8月24日[3])は、京都府出身の美術家、図画教師である。本名は中井 政治郎[4]。
来歴
1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校[注釈 1]に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった[4]。
岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。1929年、37歳で盛岡中学校に着任。生徒たちに自由に創作させ、その個性を見守る指導方針を採った[4]。京都在住時には六代目歌川豊国に絵の手ほどきをし[1]、盛岡での教え子には福田隆や村田三樹二郎[注釈 2]らがいた[2]。教職の傍ら、岩手県産木材を使った郷土玩具の制作も行った。戦争の激化により授業が減少したことから、盛岡中学を退職[4]。戦後も盛岡に暮らし、岩手県の風俗や方言を県外に伝えることを兼ねて、「盛岡方言絵はがき集」を製作。滋賀県の民族絵画である「大津絵」に着想を得て、「南部絵」の制作を志した。一点ずつ筆で描く方法では量産が困難であったため、「染絵」の技法を採り入れた。1956年には作品を通じて岩手の民芸を全国に伝えた功績から、第9回岩手日報文化賞を受賞[6]。その年に京都に戻り、工芸喫茶「わびすけ」を開店。亡くなる直前まで染絵や絵はがきを中心とした創作活動を行った[4]。
1970年(昭和45年)8月24日[3]、死去。享年78。27年間暮らした盛岡では飄々とした人柄で親しまれ、1974年の命日には教え子や友人らにより、盛岡市北山の法泉寺に画碑が建立された[7]。生誕130年にあたる2022年には、盛岡市先人記念館で企画展が開催された[2]。
作風
ほのぼのした作風が特徴で[8]、こけしや土人形などの郷土玩具を制作[2]。木綿の布に糊で図案を描き、染色して地の色を白く残す染絵の技法は福田隆にも影響を与えた[9]。1963年には、随筆『夢十夜』を著した[10]。
著書
- 中井 汲泉『夢十夜』中井汲泉随筆集刊行会、1963年。[10]
脚注
注釈
出典
- ^ a b “歌川豊國”. 東京文化財研究所 (2000年11月13日). 2025年3月29日閲覧。
- ^ a b c d “盛岡市先人記念館で「中井汲泉」展 生誕130年、ほのぼのした画風を”. 盛岡経済新聞. (2022年4月6日) 2025年4月3日閲覧。
- ^ a b “物故日本画家一覧”. UAG美術家資料棚 (2024年10月24日). 2025年4月3日閲覧。
- ^ a b c d e “盛岡の先人たち 第115回 中井汲泉”. 盛岡市教育委員会 (2009年7月10日). 2025年3月29日閲覧。
- ^ 村田三樹二郎物語(村田民芸工房)
- ^ 岩手日報文化賞 学芸部門・受賞者
- ^ 法泉寺について
- ^ 中井汲泉の世界 (PDF) (盛岡市先人記念館)
- ^ 「街なかで、染絵作家・福田隆さんの作品と人柄にふれる」(PDF)『flamme』第28巻、盛岡ガス、2013年9月1日、1-2頁、2025年3月26日閲覧。
- ^ a b 夢十夜(国立国会図書館サーチ)
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