福山の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:40 UTC 版)
「福山町 (鹿児島市)」の記事における「福山の成立と中世」の解説
福山という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国伊集院のうちであった。正中2年(1325年)の山田道慶譲状には「田地分 壱町 大道田・柳田・山下田・こは田同院福山村内」とありこのころより見える。文永6年(1269年)の所領譲状案などに見えるように紀氏がその後開発を進め、鎌倉時代の中期には島津氏がこれに参画したとされており、その結果石谷村(現在の石谷町)と福山村が形成された。建武4年(1337年)には山田氏が拠点を構え、石谷村や福山村に田地を所有していた。 福山は石谷と共に南北朝時代には伊集院氏の支配下にあったとされている。宝徳2年(1450年)に伊集院氏は没落し島津氏の直轄領となった。福山村の北部には大内田村という村があったが、福山村に編入されたとされる。天文6年(1537年)2月の島津実久と島津忠良(日新斎)・島津貴久親子の間で勃発した伊集院争奪戦では、福山に築かれた実久方の福山塁が忠良・貴久親子の攻撃によって落とされ、忠良・貴久親子が伊集院を制圧した。文禄5年(1598年)には文禄・慶長の役の褒賞として伊集院の福山村と中川村(現在の日置市伊集院町中川)の700石余が宮之城島津家の島津忠長に対して与えられた。
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