禅定院 (徳川綱條側室)とは? わかりやすく解説

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禅定院 (徳川綱條側室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 05:09 UTC 版)

禅定院(ぜんじょういん、寛文元年(1661年[1] - 元禄14年12月16日[2]1702年1月13日))は、水戸藩第3代藩主・徳川綱條側室徳川吉孚の生母。名は都禮。禅定院夫人、禅定院尼公とも称される。

生涯

落合老慶の娘として水戸領内にて生まれる。母は谷田部忠勝の養女(人見甚之丞の娘)・智栄尼。天和年間に水戸藩主徳川光圀に仕えたが、容貌が優れていたため、江戸在住の綱條の側室となり吉孚ら三男二女を生む[3]元禄14年(1702年)に41歳[4]で死去。法号は禅定院妙達月法大姉[3]瑞龍山に葬られた[5]が、現水戸市元吉田の日蓮宗蓮乗寺にも墓所があったという[6]

家系

都禮の母・智栄尼[7]は水戸城下に近い大串村(現水戸市大串町)の農夫・人見甚之丞[8]の娘で、谷田部忠勝[9]の養女となり、落合茂道に嫁ぎ一女二男(辰[10]・落合道候・道可[11])を生んだ。茂道の死後落合家に岡崎七右衛門[12]が婿入りし落合治左衛門(後に老慶[13]と号する)と名乗り、智栄尼との間に一男一女(岡崎保宗・都禮)を設けた。この娘が後の都禮である。なお、智栄尼は宝永2年(1705年)に85歳[4]で死去した。

都禮の同母兄弟(落合道候・岡崎保宗)はいずれも水戸藩士に取り立てられ[14]、嗣子の無かった道候の後を弟の道可(茂重)の子が継いだ[15]

都禮の母方の祖父人見甚之丞が勧請し彼女も崇敬していた大串村の稲荷の小祠は、宝永元年(1704年)に徳川綱條によって社殿が造営され神社となり人見氏が神主となった<ref「水府寺社便覧」(この稲荷神社についての記事は「新編常陸国誌」で翻刻されている)及び「水戸紀年」495ページ。</ref>。この稲荷神社は社領一七石を有する近辺二一ヶ村の総鎮守となり、社殿の修理や祭礼は水戸藩主が行ったという[16]

水府系纂」所収の岡崎家の系図によると落合老慶(岡崎七右衛門)の父は岡崎彦兵衛、その父は岡崎頼保[17]となっている[18]

落合家は「水府系纂」・「諸家系図纂」いずれも近江佐々木氏出身[19]としているが、これらの系図の江戸時代以前の内容を裏付ける史料はない[20]。「諸家系図纂」の「落合氏系図」に見える鑑円[21]は、多賀郡下手綱村(現茨城県高萩市)の大高寺[22]の住職で、元禄年中に徳川光圀の助力を得て参内し「円山上人」という上人号を勅許されている[23]

脚注

  1. ^ 生年は「谷田部氏系図」の没年から逆算した。
  2. ^ 「水戸紀年」による。「谷田部氏系図」では12月4日。
  3. ^ a b 『修水府名族伝料』。
  4. ^ a b 「谷田部氏系図」。
  5. ^ 「谷田部氏系図」及び『修水府名族伝料』。
  6. ^ 「水府地理温古録」206ページ。
  7. ^ 名は文献によって異なり「谷田部氏系図」では虎、また「人見氏系図」では寅。
  8. ^ 人見甚之丞を「人見氏系図」にあるように人見藤道の子孫とするのは年代が合わないが、同系図に続く「人見由緒書」に見える松平刑部大輔に仕えたという「人見武左衛門」と同名の人物(もちろん本人ではない)は「水府志料」253ページ天正13年(1585年)栗崎村仏生寺心柱題名にも見られる。
  9. ^ 妻は文献によって異なり「谷田部氏系図」では人見甚右衛門の娘、「人見氏系図」では人見甚之丞の娘。「修水府名族伝料」によると忠勝の祖父谷田部雅胤は江戸重通の家臣だったとされる。
  10. ^ 名前は「谷田部氏系図」による。辰は小山田武芳に嫁ぎ、武元を生んだ。
  11. ^ 「諸家系図纂」では茂重。
  12. ^ 「谷田部氏系図」・「水府寺社便覧」
  13. ^ 落合老慶は元禄11年(1698年)8月に死去した(「水戸紀年」487ページ)。
  14. ^ 「水府系纂」・「修水府名族伝料」。都禮の母の養父・谷田部忠勝の子孫も水戸藩や久保田藩等の藩士となっている(「谷田部氏系図」・「修水府名族伝料」)。
  15. ^ 「水府系纂」・「修水府名族伝料」・「諸家系図纂」。
  16. ^ 「茨城県の地名」247ページ。
  17. ^ 「水府系纂」・「岡崎氏系図」・「水府志料」285ページに載せられている「立原氏由緒書」には、岡崎豊後と立原弥一郎(弥市郎)が佐竹義宣の命で佐川新三郎なる人物を討った同様のエピソードがあるが、前者は岡崎が、後者は立原が義宣に賞されたことになっている。
  18. ^ 「岡崎氏系図」によると佐竹氏が秋田に移った後、岡崎家は那珂郡野上村(現茨城県常陸大宮市)で帰農したという。
  19. ^ 「松岡地理誌」47ページ・「茨城県の地名」79ページによると多賀郡高戸村(現茨城県高萩市)の修験玄光院も近江の佐々木氏の族という落合小太郎なる人物の裔と伝えられていた。
  20. ^ 「水府系纂」によると落合家は茂道の代まで多賀郡磯原村(現茨城県北茨城市)に居住していたという。
  21. ^ 系図上、道候・道可の又従兄弟に当たる。
  22. ^ 大高寺は明治19年(1886年)に焼失するまでは現在同寺奥の院のある内久田の地にあった。
  23. ^ 「松岡地理誌」27ページ。同書によると参内するにあたって鑑円は柳原大納言(元禄期の当主は資廉)の猶子となった。「資廉日記」元禄8年(1695年)4月22日条には同年2月に光圀が資廉に送った大高寺の上人号勅許に対する礼状と資廉の返信がある。ちなみに、元禄14年(1701年)3月に江戸城有名な事件に遭遇した勅使が柳原資廉である。

参考文献



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