ラーゲリ
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ラーゲリ(露: Лагерь、ラテン表記:lageréj)とは、10月革命で権力を掌握したレーニンによって建設されたソビエト連邦やその衛星国の強制収容所。本来はキャンプ・収容所を意味するドイツ語 [1]のロシア語略である[2]。
党により反革命罪等の「体制に対する罪を犯した」と判断された政治犯や重罪を犯した者、また敵国の捕虜等を主に収容された。恐怖や猜疑心、疲労によって支配された過酷な環境下に置くことにより、体制への恭順な態度を導き出す手段としても使用された。他にも収容者は無償の強制労働が「労働力」としても利用された。特にスターリン体制下では家族ごと収容されることが多く、また収容所内での出産率も高かったため乳幼児の収容者も多かった。
グラーグ(労働収容所管理総局、Glávnoje upravlénije lageréj)の「ラーグ(lageréj)」はラーゲリのロシア語での略称部分で、白海・バルト海運河建設のための労働収容所(ベルバルトラーグ)、ヴィシェラーグ(ヴィーシェラ川流域労働収容所群)などの「ラーグ」部分もラーゲリの略である[2]。
歴史
ロシア帝国時代の「シベリア流刑」
ロシアではロマノフ王朝時代から、帝政に反抗する者は秘密警察によって逮捕され、シベリア流刑の処分を受けた。ロシア帝国時代の「シベリア流刑」は軽く、また監視の目も非常に甘いため容易に脱走できた。
ボリシェヴィキ(ソ連共産党)によるラーゲリ設置
2月革命が起きると、メンシェヴィキ主導の臨時政府は時代にそぐわないとしてシベリア流刑を廃止したが、10月革命によりメンシェヴィキからレーニンらボリシェヴィキ(後のソ連共産党)が主導権が移行すると、大量の「反革命分子」や「敵階級」を収容するためシベリア流刑を復活させ、さらに強制労働収容所(ラーゲリ)を開設した。
外国人捕虜に対する強制労働・思想矯正
第二次世界大戦時の日本人捕虜も多くがシベリアなどの収容所に抑留され、強制労働に従事させられた(シベリア抑留)。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、大戦初期に併合されたバルト三国・ポーランド東部からも多数の捕虜や政治犯が収容所に送り込まれ、過酷な強制労働に従事させられた。 収容に当たり兵や下士官は一般的な収容地区、高級将校は特別施設に分類された[3]が、特別施設といえども長期間にわたり過酷な労働、思想矯正を強いられた証言は残されている(瀬島龍三、古海忠之の項を参照)。
種類と相違
なお、捕虜を収容する「捕虜収容所」と、政治犯などを収容する「矯正労働収容所」は一応別の存在であるが、どちらも内務人民委員部(のちに内務省)が管轄していた。そのため処遇は似通ったものであったほか、一部の捕虜が「反革命罪」その他のレッテルを貼られ捕虜収容所ではなく矯正労働収容所に収容されることもあった。また捕虜収容所は内務省のみならず、軍も「独立労働大隊」として運営していた[4]。
スターリンの死後
1953年のスターリンの死の直後から、スターリン体制の反省と採算性の問題からラーゲリの縮小が進められることとなる。まず未成年者および高齢者および多数の成人収容者が解放された。1956年のスターリン批判以降は劇的に収容者数を減らされることとなった。スターリンの後を掌握したフルシチョフはスターリン時代のラーゲリを描いたソルジェニーツィンの小説公表を許した[5]。
中継ラーゲリ
「中継ラーゲリ」とは、末端のラーゲリへ移動する囚人を一時的に留め置くラーゲリのことである。シベリアから極東の鉄道主要駅近隣に置かれた。通年の収容施設であるものの、冬期間に僻地の末端ラーゲリへの交通手段が無くなると収容者が激増し、ただでさえ劣悪な収容環境がさらに過酷になることで知られた。本来決まっていたラーゲリ(末端ラーゲリ)への移管を待たずして命を落とす者も多かった。例として、ウラジオストクの中継ラーゲリにて、ポーランド出身のロシアのユダヤ系詩人オシップ・マンデリシュタームが1938年12月27日に死亡している。
脚注
注釈
出典
- ^ 由来であるKonzentrationslagerは、夏休みの子供キャンプ・合宿・宿泊施設のこと。そこから発展し、収容所との意味もある
- ^ a b オーランドー・ファイジズ『囁きと密告――スターリン時代の家族の歴史』下巻(染谷徹訳、白水社、2011年)p538
- ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、190頁。ISBN 9784562049318。
- ^ 富田武:シベリア抑留(2016)、中公新書、ISBN:978-4-12-102411-4
- ^ “フルシチョフ(ふるしちょふ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年3月9日閲覧。
参考文献
- 『収容所群島』(小説、アレクサンドル・ソルジェニーツィン)
- 『イワン・デニーソヴィチの一日』(小説、アレクサンドル・ソルジェニーツィン)
- 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(ノンフィクション、辺見じゅん)
- 『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』 アン・アプルボーム、川上洸・訳 白水社(ノンフィクション)
- 『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』ジャック・ロッシ ISBN 978-4-87430-023-7
関連項目
- チェーカー / ゲーペーウー / 内務人民委員部
- グラーグ (ГУЛАГ)-強制労働収容所の管理主任、強制労働収容所一般
- ソロヴェツキー修道院-北ロシアにおけるキリスト教・正教会最大の城塞をそなえた修道院。ソビエト時代初期に強制収容所および刑務所に用いられ、「グラグ(グラーグ)」の原型となった。
- シベリア抑留-第二次世界大戦後にソ連が行った戦争犯罪
- ソビエト連邦共産党-ロシア革命で権力を握ったボリシェヴィキの改名後組織
- ヨシフ・スターリン- ラーゲリを復活させたレーニンを引き継ぎ、より過酷にラーゲリを用いた。
- 収容所から来た遺書-第二次世界大戦後のシベリア抑留によって、強制収容所(ラーゲリ)内で亡くなった山本幡男の遺書を元にしたノンフィクション
- ラーゲリより愛を込めて-辺見じゅん原作のノンフィクション『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の映画化作品
外部リンク
- Meomorial(ソ連時代の弾圧、収容所の歴史) / /
- 祖国の裏切り者の妻のためのアクモル収容所のページへのリンク