砲術修行
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1841年、武蔵の徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で、高島秋帆の指導のもと洋式軍の訓練が行われた。砲撃演習も行われ、これを見学していた磐渓は「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と西洋砲術を学ぶ決意をする。1848年、秋帆の門人・大塚同庵から西洋砲術の皆伝を受け、1851年2月には藩から「西洋砲術稽古人」を命じられた。11月には佐久間象山が西洋式カノン砲の試し撃ちを行ったが、磐渓はこの手助けを行っている。1855年11月には藩から「西洋流砲術指南取扱」を命じられ、12月に江川英龍に入門している。
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