砂丘荒廃地の発生と飛砂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 22:00 UTC 版)
後に柳崎集落に飛砂被害をもたらす砂丘荒廃地は、明治初頭頃から厚沢部川右岸側に発生した。幕末の探検家である松浦武四郎は自身が出版した「再航蝦夷日誌」(1850年)や「武四郎廻浦日記」(1856年)で柳崎周辺について、砂地に海浜植物が生えているだけの土地であると記述しており、「武四郎廻浦日記」には少なくともこの景観は明治になってからもしばらく続いていたことが記されている。 昭和初期に厚沢部川南部のある土地を放牧場とした結果、20年ほどで植生は失われ荒れ地と化した。柳崎集落周辺では、馬や牛の過放牧による荒廃地の出現がたびたび認められた。「夏原律太郎戸長記録」には、明治初期には柳崎だけで95頭もの馬が飼育されていたと記されており、現代と比べて牧草の質も量も劣る当時の放牧地が過放牧状態となるのは避けられなかった。 こうした状況下の中で荒れ地は見る見るうちに広がり、砂丘荒廃地が発生した。冬季には「タバ風」と呼ばれる北西からの季節風によって砂が雪上を滑るように飛び、砂丘地の後方およそ7kmまでの田畑を砂で埋め尽くした。砂の搬出には子供たちも動員され、冬明けには田畑の砂除けのために学校を休む子供も多く、半ば春先の風物詩にもなっていたという。飛砂は毎年のように発生しては田畑を荒廃させ、結果として柳崎集落に移転を余儀なくさせた。また住民の一部は村を去る選択をし、人口の減少を招いた。 海岸林の伐採自体は北海道各地で行われていたものの、柳崎集落周辺は冬季の季節風が過放牧による荒廃地から砂を巻き上げ、本来は集落を守るはずの海岸林が失われていたため飛砂の被害が飛びぬけて大きくなった。
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