真盛寺と大相撲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:46 UTC 版)
昭和20年3月10日の東京大空襲で、下町一帯は焼け野原になり、周囲にあった相撲部屋もほとんど消失、一か月ほど経ってから、後援会の取り持ちで玉ノ海率いる二所ノ関部屋が間借りした。5月25日の夜の空襲で真盛寺界隈も戦渦に見舞われると、神風ら部屋の力士たちが消火活動に奔走し火を消し止め、真盛寺は護られた。翌日焼け出された双葉山が20名ほどの弟子を連れ一か月ほど身を寄せる。昭和21年10月には大ノ海が第45代横綱となる若ノ花をスカウトし、真盛寺に連れてくる。昭和22年夏場所千秋楽の夜、若ノ花とのちの大関琴ヶ濱が食事に行こうとすると、力道山に脱走と勘違いされ、以後目をかけられしごかれることになる。二所ノ関部屋は昭和25年に両国へ戻るが、大ノ海は杉並に残り若ノ花を連れて分家独立、杉並区阿佐ヶ谷に花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設する。真盛寺はのちに花籠部屋、二子山部屋を枢軸とした「阿佐ヶ谷勢」魁の地となった。
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