真の火薬庫イスタンブール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 17:59 UTC 版)
「露仏同盟」の記事における「真の火薬庫イスタンブール」の解説
フランスがベルギー投資を続けるには、ドイツに払った賠償金50億フランの代償をどこかで得る必要があった。それがオスマン債務管理局を通した地中海開発事業である。オスマン帝国の財務を握っていたカモンド家、借款を使ってスエズ利権を手にしたディズレーリ首相、いずれにも顔の利くロスチャイルド家をチャンネルとして、フランスとイギリスはオスマン分割に精を出した。壮大なビジネスであったから、ドイツはロシア国債の引受を断ってでも資金を振り向け、先客の英仏に嫌悪されながら、オーストリアに近いドイツ南部諸邦の利益となる範囲で、アナトリアの鉄道事業等に食い込んでいった。 1888年11月12日の機密第73号電報で、募集額5億フラン中、フランス銀行団が3億2500万フランを引き受け、残りはロンドン・アムステルダム・ベルリンおよびサンクトペテルブルク数行のシンジケートが引受けると発電された。ロシアは翌年にも7億フランと12億フランの外債をパリ証券取引所で募集し、引き受け手を見つけることができた。1890年、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになった。1891年、金銀比価が元に戻れないような勢いで開き始め、大不況のクライマックスがドイツにそびえるユリウスの塔(Juliusturm, 賠償金の一部を保管)を輝かせた。
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