相馬健一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 06:47 UTC 版)
そうま けんいち
相馬 健一
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生誕 | 1931年8月13日![]() |
死没 | 2025年5月15日(93歳没) 山形県山形市 |
死因 | 肝細胞癌 |
出身校 | 山形大学文理学部経済科 |
職業 | ジャーナリスト、実業家 |
相馬 健一(そうま けんいち、1931年(昭和6年)8月13日 - 2025年(令和7年)5月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家。山形新聞社社長、会長を務めた。
人物
山形県上山市出身。山形大学文理学部卒業後、1953年に山形新聞社へ入社し、社会部記者となる。
取締役論説委員長、専務取締役編集局長、副社長を経て[1]、1993年(平成5年)社長に就任[2]。在任は12年におよび、その間には新聞の新電子システム(CTS)の稼動や、新社屋である山形メディアタワーの一期工事竣功に尽力した。
2005年(平成17年)に会長に就任。
2010年(平成22年)には、山形新聞、山形放送の相談役を退任した。
そのほか、山形県経営者協会長や、山形美術館理事長なども務めた。
2025年(令和7年)5月15日、山形県山形市の高齢者施設で肝細胞癌のため死去[3]。93歳没。同年6月4日、山形市のパレスグランデールで山形新聞社と相馬家による合同葬が営まれた[4]。
「山形の首領」への反論
『朝日ジャーナル』が、1985年(昭和60年)7月19日号から、3回にわたって「AJ人国記 山形の首領」と題し、服部敬雄と山形新聞・山形交通グループに対する批判記事を掲載した。これを受け同誌8月9日号において当時、常務取締役編集局長であった相馬が、「山形の首領への反論」を寄稿。同誌に全文が掲載されている。
以下はその要旨。
山形新聞・山形交通グループが、花笠まつりを私物化し、カネ儲けのためにやっているかの印象を記事より受けるが、取材不足ではなかろうか。山新グループは、花笠まつりのために多額の経費を負担したうえ、労力も提供している。花笠の夏は本当に憂鬱なのか。まつりの期間中お出になり、幅広く関係者の声を聞いて頂きたい[5] 。山形美術館は、服部敬雄館長の「戦後の荒廃した人心にうるおいを」の発案により、1963年(昭和38年)設立し翌年開館した。すでに開館以来20年が経過し、老朽化したため1984年(昭和59年)より新館建設に着手した。これに対しては、山形県や山形市当局も、新館建設に賛同した上で補助金の支出を決定している[5]。
蔵王県境事件は、記事において「ひと口で言えば、県境が動いたのである。」としているが、山形地検の捜査段階から事件を担当した記者として結論を申し上げると、「県境は、動かなかった」というより、「動かされなかった」と思っている[5]。
何をどのような視点で取り上げようとも、またどのように批判しようとも貴誌の責任において行うことは自由ですが、一方に偏した取材にならないようご配慮いただきたい[5]。
略歴
- 1953年(昭和28年)10月 - 山形新聞社入社。
- 1954年(昭和29年)3月 - 山形大学文理学部経済科卒業。
- 以降、報道部長、東京支社次長、編集局長等を歴任する。
- 1975年(昭和50年) - 取締役。
- 1983年(昭和58年) - 常務取締役。
- 1985年(昭和60年) - 専務取締役。
- 1991年(平成3年) - 副社長。
- 1993年(平成5年) - 代表取締役社長。
- 2005年(平成17年) - 代表取締役会長。
- 2009年(平成21年) - 相談役。
- 2010年(平成22年) - 退任。
脚注
- 相馬 健一のページへのリンク