田口忠左衛門慶卿と付知堰水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:24 UTC 版)
「付知町」の記事における「田口忠左衛門慶卿と付知堰水」の解説
田口忠左衛門慶卿は、寛政10年(1798年)6月24日に尾張藩から苗字・帯刀を許された付知村の庄屋の家に生まれた。元来付知村は、飛騨と信濃の国境に近く、山間僻遠の地であって灌漑が乏しかった。そのため平地が多いものの水田を拓く術がなかった。田口忠左衛門慶卿は、このことを憂いて、堰水を建設することを計画した。最初に鱒淵堰が文政10年(1827年)9月に着工され最初に完成し、さらに文政13年(1830年)3月に延長された。ついで西股が嘉永3年(1850年)、宮津・北・荏薙の合計4つの水路が嘉永4年(1851年)に開かれた。工費は2万4千両に及んだが、墾田が55町7反8畝を得て大きな村となった。
※この「田口忠左衛門慶卿と付知堰水」の解説は、「付知町」の解説の一部です。
「田口忠左衛門慶卿と付知堰水」を含む「付知町」の記事については、「付知町」の概要を参照ください。
- 田口忠左衛門慶卿と付知堰水のページへのリンク