王謨 (中華民国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 09:53 UTC 版)
王謨 | |
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『中国文化界人物総鑑』(1940年)
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プロフィール | |
出生: | 1895年[1][2][3][注 1] |
死去: | 1958年 [4]![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 教育者・地理学者・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王謨 |
簡体字: | 王谟 |
拼音: | Wáng Mó |
ラテン字: | Wang Mo |
和名表記: | おう ぼ/おう も |
発音転記: | ワン モー |
王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、中華民国の教育者・地理学者・政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。字は献芻[1][2][3]。
事績
民国初期に日本へ留学し、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)で学ぶ。後に東京帝国大学理学部地理学科へ転じ、1922年(民国11年・大正11年)3月に卒業、理学士の称号を取得した[7]。帰国後は、国立武昌大学、国立北京師範大学、国立清華大学、国立北京大学女子文理学院などの地理学系教授や講師を歴任し[1][8]、北京政府時代には参議院議員もつとめた[5]。1942年(民国31年)まで北京師範学院院長をつとめ、その後に北京師範大学教授をつとめる[8]。
1943年(民国32年)11月、華北政務委員会の改組に伴い、王謨は同委員会の教育総署督弁兼常務委員に任ぜられた。しかし、翌年7月に辞任した[9][注 2]。この辞任については、王謨が抗日の学生を庇護して重慶国民政府統治下へ避難させたり、鉱山労働への学生動員を妨害したりしたことが日本側に発覚したため、との指摘もある。ただしその一方で、日本側の指示に従いながら親日的な教育方針を打ち出して強力に実施した面も否定できなかったとされる[10]。
汪兆銘政権崩壊後の1945年(民国34年)12月、王謨は他の華北要人と共に漢奸の罪で逮捕、南京へ護送された[11]。1946年(民国35年)、首都高等法院により漢奸の罪で懲役15年、公民権褫奪10年、生活費以外の財産没収という判決を受けた。その後の上訴の結果、首都高等法院で再審となり、1948年(民国37年)には懲役10年に減刑された。これは前掲の抗日学生庇護等が考慮されたためとされる[12]。
1949年(民国38年)に保釈されてからは、王謨は北京市内に寓居した。1958年、脳溢血により自宅で死去[4]。享年64。
著作
注釈
出典
- ^ a b c d 外務省情報部編(1937)、48頁。
- ^ a b 藤田編(1986)、25頁。
- ^ a b c 橋川編(1940)、59頁。
- ^ a b c 李(1998)、160頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1255頁。
- ^ 李(1998)、158頁。
- ^ 東京帝国大学(1939)、408頁。
- ^ a b 『朝日新聞』(東京)昭和18年11月12日、2面。
- ^ 郭主編(1990)、1885頁。
- ^ 李(1998)、158~159頁。
- ^ 「王謨読別字」『大地』第8期、1946年6月2日、救国日報社(出版地:南京)、3面。
- ^ 李(1998)、159~160頁
- ^ 橋川編(1940)、60頁。
参考文献
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。 ISBN 7-226-00582-4。
- 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和12年版』東亜同文会業務部、1937年。
- 李英才「華北政務委員会常務委員、教育総署督弁王謨」中国人民政治協商会議儀隴県委員会文史委員会編『儀隴文史資料選輯 第18輯(人物資料之一 儀隴古今人物録)』1998年。
- 柴田陽一「日本と中国の地理学史における王謨の役割」日本地球惑星科学連合2014年大会 2014年4月29日
- 『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1939年。
- 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院、1986年。 ISBN 9784762910463。
- 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。
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