烏丸家との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:20 UTC 版)
明治維新前後江戸市民は慢性的な飢餓状態に陥っていた、。烏丸家は京都から上京した頭初には富士見(飯田町3丁目)に居を構えた。高松藩の上屋敷があった所である。しかし当初、財政は逼迫し、華族に家族手当を供給しなければならない程であった(慶応3年12月26日に、光徳は【この御一新といった騒ぎに、御弁当その他諸御台所入用が26万両払わねばならぬ。けれども一文もない。どうにかこの方法を附けねば、もはや弁当も食べられぬ状態であると】と金穀出納所取締役光岡八郎に述べてもいる)。光徳没後、録の途絶えた烏丸一家は、この地を離れ、神田錦町へ移った(神田区錦町2丁目5番地)。 この頃に、副島種臣を介して、烏丸家と村田家とが知り合ったとされている。岩次郎は、明治12年(1879)5月には村会議員にもなっており生活基盤はしっかりしていた。
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