瀬戸内遊歴
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嘉永2年(1849年)金刀比羅宮参りのため讃岐国に渡り、4月から10月まで琴平内町児島屋に滞在、同町余島屋吉右衛門方、野々口隆正と札の前町新かね菅家にも滞在し、丸亀方面にも旅行した。 備中国倉敷に渡った後、讃岐に戻って白峯崇徳天皇御陵に参拝、嘉永5年(1852年)頃高松で木村黙老と面会した。間もなく倉敷に戻り、備前国福山に招かれた後、直島に戻った。直島から三宅源左衛門と共に再び讃岐を訪れ、高松で黙老に再会した。この頃1度大坂にも出ている。 安政元年(1854年)頃倉敷に戻り、石坂秋朗方に滞在し、野々口隆正・鈴木重胤を介して大坂屋源介(林孚一)の世話を受け、泉屋藤右衛門等と交流した。最晩年には縫屋仙四郎の離れ座敷に女中と暮らしたが、仙四郎や妻子を無遠慮に使役したため源介が苦情を受けている。持病の治療費が嵩む中、揮毫で得た収入を料亭通いで散財し、倉敷代官佐々井半十郎に睨まれた。 大坂への出店や江戸への帰郷を考え、貯金して養子を探していたが、安政4年(1857年)8月9日死去し、10日誓願寺に葬られた。同寺には貯金を元に秋朗誌・和栗惟彰書「北溟翁之墓」が建てられ、残金は寺に奉納された。法名は正誉北溟清信士。
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