濃尾平野の舟橋佐渡川(揖斐川) - 川幅200メートル超。西側を大垣藩が、東側を徳川幕府が分担し、80-104艘で架橋。墨俣川(長良川) - 川幅300メートル弱。西側を尾張藩が、東側を加納藩が分担し、105-116艘で架橋。小熊川(境川) - 川幅約40メートル。旗本の竹中家と大島家が12-28艘で架橋。起川(木曽川) - 川幅800メートル超。起藩が274-281艘で架橋。いわゆる「起の舟橋」(後述)。「起(おこし)の舟橋」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 14:37 UTC 版)
「舟橋」の記事における「濃尾平野の舟橋佐渡川(揖斐川) - 川幅200メートル超。西側を大垣藩が、東側を徳川幕府が分担し、80-104艘で架橋。墨俣川(長良川) - 川幅300メートル弱。西側を尾張藩が、東側を加納藩が分担し、105-116艘で架橋。小熊川(境川) - 川幅約40メートル。旗本の竹中家と大島家が12-28艘で架橋。起川(木曽川) - 川幅800メートル超。起藩が274-281艘で架橋。いわゆる「起の舟橋」(後述)。「起(おこし)の舟橋」」の解説
江戸時代、現在の木曽三川にあたる河川の渡河は渡し船が一般的だったが、征夷大将軍と朝鮮通信使が渡る際のみ、美濃国と尾張国の境にある佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・小熊川(境川)・起川(木曽川)の4河川が舟橋で架橋された。木曽川に架かる「起の舟橋」は日本最長の舟橋であり、長さは475間3尺(約860メートル)、幅は9尺(約3メートル)だった。大船44艘と小船230艘が使用され、舟の上に敷く板は3036枚にも上った。一般の大名の通行は禁じられていた。起の舟橋は現在の行政区域では愛知県一宮市と岐阜県羽島市を結んでおり、一宮市尾西歴史民俗資料館には起の舟橋の模型が展示されている。
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「濃尾平野の舟橋佐渡川(揖斐川) - 川幅200メートル超。西側を大垣藩が、東側を徳川幕府が分担し、80-104艘で架橋。墨俣川(長良川) - 川幅300メートル弱。西側を尾張藩が、東側を加納藩が分担し、105-116艘で架橋。小熊川(境川) - 川幅約40メートル。旗本の竹中家と大島家が12-28艘で架橋。起川(木曽川) - 川幅800メートル超。起藩が274-281艘で架橋。いわゆる「起の舟橋」(後述)。「起(おこし)の舟橋」」を含む「舟橋」の記事については、「舟橋」の概要を参照ください。
- 濃尾平野の舟橋佐渡川 - 川幅200メートル超。西側を大垣藩が、東側を徳川幕府が分担し、80-104艘で架橋。墨俣川 - 川幅300メートル弱。西側を尾張藩が、東側を加納藩が分担し、105-116艘で架橋。小熊川 - 川幅約40メートル。旗本の竹中家と大島家が12-28艘で架橋。起川 - 川幅800メートル超。起藩が274-281艘で架橋。いわゆる「起の舟橋」。「起の舟橋」のページへのリンク