温嶠・陶侃らの反攻とは? わかりやすく解説

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温嶠・陶侃らの反攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)

蘇峻」の記事における「温嶠・陶侃らの反攻」の解説

同月3月尋陽逃れていた温嶠庾亮水軍7千の義軍率いて蘇峻討伐宣言すると、陶侃もまたこれに呼応して武昌より出撃した。当時一連の混乱饑饉重なり、米の値段高騰したという。これに応じて尚書令郗鑒もまた兵を率いて長江を渡ると、茄子浦において陶侃らと合流した雍州刺史魏該もまたこれに合流した。 さらにこれより前、蘇峻尚書張闓派遣して三呉(呉郡呉興郡会稽郡)の将兵統率させていたが、王導密かに太后の詔と称して三呉の将兵説得させると、彼らは皇帝救援義軍興した会稽内史王舒庾冰を行奮武将軍に任じて1万の兵を授けて浙江西へ渡らせ、呉興郡太守虞潭呉国内史蔡謨・前義興郡太守顧従らもみな挙兵してこれに呼応した。 この混乱乗じて後趙石勒東晋への侵攻乗り出すと、7月には寿春を守る祖約後趙将軍石聡・石堪らに敗れ歴陽逃走した蘇峻腹心である路永・匡術・賈寧は、祖約敗戦聞いて全体崩壊恐れ蘇峻には王導始めとした諸大臣尽く誅殺し、自らの腹心代わりに立てるよう勧めた。だが、蘇峻王導重んじていたので、これを却下した。これにより路永らは蘇峻に不満を抱くようになり、これを好機見た王導参軍袁耽派遣して路永に寝返り持ち掛けた9月王導2人の子や路永と共に、隙を見て白石逃走した

※この「温嶠・陶侃らの反攻」の解説は、「蘇峻」の解説の一部です。
「温嶠・陶侃らの反攻」を含む「蘇峻」の記事については、「蘇峻」の概要を参照ください。

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