温嶠・陶侃らの反攻
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同月3月、尋陽に逃れていた温嶠・庾亮は水軍7千の義軍を率いて蘇峻の討伐を宣言すると、陶侃もまたこれに呼応して武昌より出撃した。当時、一連の混乱と饑饉が重なり、米の値段が高騰したという。これに応じて尚書令の郗鑒もまた兵を率いて長江を渡ると、茄子浦において陶侃らと合流した。雍州刺史魏該もまたこれに合流した。 さらにこれより前、蘇峻は尚書の張闓を派遣して三呉(呉郡・呉興郡・会稽郡)の将兵を統率させていたが、王導は密かに太后の詔と称して三呉の将兵を説得させると、彼らは皇帝救援の義軍を興した。会稽内史王舒は庾冰を行奮武将軍に任じて1万の兵を授けて浙江を西へ渡らせ、呉興郡太守虞潭・呉国内史蔡謨・前義興郡太守顧従らもみな挙兵してこれに呼応した。 この混乱に乗じて後趙の石勒が東晋への侵攻に乗り出すと、7月には寿春を守る祖約が後趙の将軍石聡・石堪らに敗れ、歴陽へ逃走した。蘇峻の腹心である路永・匡術・賈寧は、祖約の敗戦を聞いて軍全体の崩壊を恐れ、蘇峻には王導を始めとした諸大臣を尽く誅殺し、自らの腹心を代わりに立てるよう勧めた。だが、蘇峻は王導を重んじていたので、これを却下した。これにより路永らは蘇峻に不満を抱くようになり、これを好機と見た王導は参軍袁耽を派遣して路永に寝返りを持ち掛けた。9月、王導は2人の子や路永と共に、隙を見て白石へ逃走した。
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