渡米前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 05:42 UTC 版)
「ウィリアム・ディターレ」の記事における「渡米前まで」の解説
1918年から有名な舞台上の表現主義を推し進めていったプロデューサー、舞台監督、デザイナー及び興行主のマックス・ラインハルトの劇団にベルリンで所属し、演じるようになる。1920年から本格的に映画に復帰。当時のドイツのサイレント映画界において自然主義・ロマン主義的な主役や逆にドイツ表現主義やゴチックな表現もどちらもできる国内でも有名かつ成功した俳優の一人になる。しかしディターレは師の与えたインスピレーションにより演技より映画監督に興味を持つようになる。1923年までに20本近くの映画に出演後、本名のヴィルヘルム・ディテルレの名前で映画監督としてデビュー、最初の主演女優は若いマレーネ・ディートリヒであった。 ディターレの妻のシャルロッテ・ハーゲンブルッフと共に、彼自身の映画プロダクションを設立、1920年代は俳優と映画監督として両方の才能を発揮するようになった。特に俳優としては『裏町の怪老窟』(1924、パウル・レニ監督)や『ファウスト』(1926、F.W.ムルナウ監督)など、俳優はコンラート・ファイトやエミール・ヤニングスを発掘した。1927年以降は自作自演の作品も多くなる。
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