深堀藩士の討ち入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 23:43 UTC 版)
深堀側も黙っているわけにはいかず、三右衛門の息子で17歳の嘉右衛門賢時以下10名が深堀領から長崎へ向かった。「昨日之相手出し可申候、打果し可申(昨日の相手を出せ、討ち果たしてくれる)」と詰め寄る三右衛門と武右衛門に対して、彦右衛門は屋敷の門前で低姿勢で謝罪し、佐賀本藩の長崎聞番(佐賀本藩と深堀領の間に立つ連絡役)である伊香賀(いかが)利右衛門も穏便に済ますよう働きかけたが、収まらなかった。 深堀藩士10人に三右衛門・武右衛門の2人を加えた合計12名が、翌20日未明に西浜町にあった高木彦右衛門屋敷へ討ち入った。門番を斬り殺して大門を開け、門内に侵入すると、外からの加勢を防ぎ内からの逃亡をさせないために再び門を閉め裏口も固めた。屋敷に準備してあった弓の弦は切断され、槍も投げ捨てられた。 彦右衛門も刀を持ち出し応戦したが、討ち取られ死亡。高木側では当主と事件当事者の惣内、屋敷にいた剣客ら合計9名が死亡。深堀衆は彦右衛門の首を切断し槍先に突き刺して、深堀屋敷へ引き上げた。城島次郎右衛門以下9名も後から駆けつけたが、既に彦右衛門は討たれていたため、戦闘には不参加であった。 なお、三右衛門は高木邸の玄関の式台で、武右衛門は中島川に架かる大橋(後の鉄橋(くろがねばし))で、それぞれ切腹した。しかし、死後2人の遺骸を検死したところ、腹部に切傷が無かったため、切腹したのではなく仲間の深堀衆から斬り殺されたとする説もある。
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