淮海戦役での惨敗
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終戦後の1946年(民国35年)1月、劉峙は鄭州綏靖公署主任に任ぜられ、国共内戦のための準備を開始する。同年6月より中原解放区や冀魯豫解放区への攻撃を開始したが、共産党側の反撃に敗北を喫したため、劉は戦略顧問委員会委員の閑職に移されてしまった。1948年(民国37年)5月、劉は徐州剿匪総司令として再び起用され、80万の兵力で徐州方面の中国人民解放軍を迎撃することになる。しかし、この時も劉は副司令杜聿明との連携を欠いた上に指揮も粗雑で、11月から翌1949年(民国38年)1月までの淮海戦役で惨敗を喫した。劉は身一つで脱出したものの、このとき劉が喪失した兵力は55万5千人であったという。 このため劉峙は、総統府戦略顧問の閑職に再び移された。内戦終盤の1949年7月に香港の九龍へ逃れ、翌1950年にはインドネシアへ亡命した。1953年1月、台湾に移り、総統府国策顧問の肩書きを与えられている。 1971年(民国60年)1月15日、台湾にて病没。享年80(満78歳)。
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