淮王時代
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「テムル・ブカ (淮王)」の記事における「淮王時代」の解説
至正27年(1367年)、朱元璋は張士誠を打倒して江南を平定し、大元ウルスの情勢はいよいよ悪化した。同年、テムル・ブカは宣譲王より最高ランクの「淮王」に昇格となり、金印を賜り王傅を設置している。至正28年(1368年)、国号を大明とした朱元璋は徐達を主将とする北伐軍を派遣し、大都を攻略させようとした。9月8日(旧暦閏月26日)、明の北伐軍が大都近郊の通州まで攻略すると、頼みとするココ・テムルの軍隊も遠く太原にあって援軍を望めず、もはや大都を固守することは不可能と見られた。 9月9日(旧暦閏月27日)、ウカアト・カアンはテムル・ブカを監国に、慶童を中書左丞相に任命して大都残留部隊の司令官とし、9月10日(旧暦閏月28日)にウカアト・カアンは大都より逃れて北方へ向かった。ウカアト・カアンの脱出後、徐達は通州の守備を馬指揮に任せ、大都への攻撃を開始した。東方に位置する斉化門を攻略した明軍は城内に突入し、テムル・ブカら大都に残留した高官の多くは殺された。9月14日(旧暦では8月2日)、こうして大都は陥落し、これを以て明朝は「元朝は滅んだ」とした。テムル・ブカは当時のモンゴル人としては非常に長命で、大都で戦死した時には83歳であったという。
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