海沿いにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 17:17 UTC 版)
その後サンタフェに対抗するためにオリベの軍隊に同行した。フアン・パブロ・ロペス(スペイン語版)と対峙する前に、ロサスは彼を一時的にウィリアム・ブラウン提督の部隊の指揮下に置くように呼びかけた。マーザはモンテビデオへの攻撃を試みたが、失敗した。 マーザはエントレ・リオス州に移り、 1842年12月6日のアロヨ・グランデの戦い(スペイン語版)で連邦歩兵の半数を指揮した。この勝利により、リベラはアントレ・リオスを追放され、ウルグアイに進出してオリベを政権に復帰させることができた。第一次世界大戦(Guerra Grande、ここではウルグアイ内戦のこと)では、歩兵大隊の隊長としてモンテビデオの包囲に参加した(不思議なことに、ベルナルディーノ・リバダビア(スペイン語版)の息子2人が将校として入っていた)。のちオリベの娘と結婚した。 1851年、ウルキーザ宣言(スペイン語版)及びウルグアイ侵攻が行われると、オリベは降伏せざるを得なかった。モンテビデオの包囲は引き分けに終わったが、アルゼンチン軍はウルキーザ軍と意に反して団結し、ブエノスアイレスのローザスに攻め入った。主な指導者は、ジェロニモ・コスタ(スペイン語版)大佐、ホセ・マリア・フローレス(スペイン語版)大佐、ニコラス・グラナダ(スペイン語版)大佐、マーザらで、なんとか逃げ延びることに成功した。ブエノスアイレスに渡り、1852年2月3日のカセロスの戦い(スペイン語版)に参戦した。
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