浦賀の発展と燈明堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/13 14:43 UTC 版)
「燈明堂 (横須賀市)」の記事における「浦賀の発展と燈明堂」の解説
三浦半島は古代より相模と上総を結ぶ海上交通の要衝であり、現在の横須賀市東部はリアス式海岸で船の停泊に適した場所が多かったこともあり、中世以降水運が発達するようになった。特に天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入城、そして慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立によって、現在の東京湾の水運は飛躍的な発展を見せるようになった。 水運の飛躍的な発達に伴い、東京湾を航行する船が通過する浦賀水道の重要性が高まり、浦賀水道に面する深い入江である浦賀には風待ちの船が多く集まるようになり、また干鰯問屋などの商人たちも集まって栄えるようになった。そして享保5年(1720年)には浦賀奉行所が設置され、東京湾口にあって交通の要衝である浦賀は、往来する船やその積荷を検査する場としての役割も担うようになった。 港湾としての重要性を増した浦賀に入港する船の安全と、東京湾の入り口である浦賀水道の航行の安全を図る必要性が高まる中、江戸幕府は慶安元年(1648年)、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆の指図のもと、浦賀に燈明堂を建設した。
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