浄土真宗親鸞会と本願寺教団比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 02:34 UTC 版)
現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。 削除についての議論は、削除依頼の依頼サブページで行われています。削除の議論中はこのお知らせを除去しないでください。 この項目の執筆者の方々へ: まだ削除が行われていない場合は、議論に参加し、削除の方針に該当するかどうか検討してください。また、本項目を既に編集されていた方は、自身の編集した記述内容を念のために控えておいてください。 |
![]() |
この記事には複数の問題があります。
|
浄土真宗親鸞会と本願寺教団比較は、現代日本の宗教運動である浄土真宗親鸞会(以下、親鸞会)と、十三宗五十六派の一つ浄土真宗本願寺派(西本願寺)および真宗大谷派(東本願寺)について、その歴史、組織、教義、社会との関わりにおける相違点をまとめたものである。
両者の根本的な違いは、その成立背景と近代社会との関係性にある。本願寺教団が数世紀にわたる歴史と文化に根差した巨大な教団であるのに対し、親鸞会は既存教団が精神的に堕落し、教えを歪めているという批判から生まれた、原理主義的な性格を持つ近代的復興運動とも位置づけられている。
歴史
共通の源流と本願寺の形成
親鸞会と本願寺教団は、ともに鎌倉時代の僧である親鸞(1173-1263年)を宗祖とする。阿弥陀仏の本願を信じることで誰もが救われるという教えは、浄土真宗の根幹をなしている。
親鸞の死後、その墓所(大谷廟堂)は門弟の中心地となり、曾孫の覚如が1321年に「本願寺」として寺院化した。室町時代には、第8代宗主の蓮如が「御文章」を用いた分かりやすい布教で教団を全国的な勢力に拡大させ、「中興の祖」と称される。
本願寺の東西分裂
本願寺の分裂は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての政治情勢が大きく影響している。第11代宗主・顕如と織田信長との石山合戦後、顕如の後継者をめぐって長男の教如と三男の准如が対立。豊臣秀吉や徳川家康の介入を経て、1602年、家康が教如に寺領を寄進したことで分裂は決定的となった。これにより、准如が継いだ西本願寺と教如が率いた東本願寺が並立することになった。現在の「浄土真宗本願寺派」(西)と「真宗大谷派」(東)という宗派名は、明治時代に定められたものである。
親鸞会の創設
親鸞会の創設者である高森顕徹(1929年-)は、富山県の浄土真宗本願寺派寺院に生まれた。第二次世界大戦中の特攻隊志願の経験から「なぜ生きるか」という問いを抱き、戦後、龍谷大学(西本願寺系の大学)で学び、一時は本願寺派の寺で説法をしていたが、本願寺教団の教えに幻滅したとされる[1]。
1952年に「徹信会」を設立し、1958年に「浄土真宗親鸞会」へ改称。親鸞会は、伝統教団が「葬式仏教」に堕落し、親鸞の真の教えを失ったと批判し、自らをその教えを正確に伝える唯一の存在と位置づけている[2]。
また親鸞会の活動は、親鸞、蓮如の教えたことを、そのまま伝える団体とする[3]。
この背景から、両者の正統性の主張には根本的な違いがある。
- 本願寺教団: 親鸞からの物理的な血の繋がり(血脈)による世襲の指導者(門主・門首)を権威の根拠とする[4]。
- 親鸞会: 伝統教団によって失われた親鸞の真の教えを創設者の高森顕徹が再発見し、正しく継承しているという教えの繋がり(法脈)を権威の根拠とする[5]。
このため、親鸞会は新宗教というより、浄土真宗の伝統を原典とした「復興主義的」な教団改革運動ないし再生運動と見なされることもある[6]。
組織と規模
本願寺教団(本願寺派・大谷派)
本願寺派と大谷派は、日本最大級の宗教法人である。
- 浄土真宗本願寺派(西本願寺): 寺院数約1万、僧侶数約3万人。
- 真宗大谷派(東本願寺): 寺院数約9千。
両派の統治構造は近代的な権力分立を導入しており、親鸞の子孫である世襲の門主(本願寺派)や門首(大谷派)が精神的指導者として存在する一方、実際の行政は総長が率いる内閣にあたる組織(総局・内局)が担い、議会(宗会・宗議会)がそれをチェックする体制となっている。また、それぞれ龍谷大学(西)や大谷大学(東)などの関連教育・研究機関を多数運営している。
親鸞会
親鸞会は、富山県射水市の本部を頂点とする中央集権的な組織構造を持つ。創設者である高森顕徹が、教義の解釈と組織運営における最終的な権威を持つ。
伝統的な寺院ネットワークを持たず、書籍や映像コンテンツを制作し、メディアを駆使した布教活動を展開する。公称の会員数は10万人とされる。
組織概要の比較
特徴 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) | 真宗大谷派(東本願寺) | 浄土真宗親鸞会 |
---|---|---|---|
宗祖 | 親鸞聖人 | 親鸞聖人 | 親鸞聖人 |
歴史上の重要人物 | 蓮如、准如 | 蓮如、教如 | 蓮如、高森顕徹(創始者) |
成立時期 | 鎌倉時代(源流)、 1602年(東西分立) |
鎌倉時代(源流)、 1602年(東西分立) |
1958年(親鸞会として) |
本山・本部 | 西本願寺(京都市) | 東本願寺(真宗本廟、京都市) | 親鸞会本部(富山県射水市) |
指導体制 | 世襲制の門主(精神的指導者)と行政機関 | 世襲制の門首と行政機関 | 会長、または各局長 |
寺院・施設数(約) | 10,042カ寺 | 8,638カ寺 | 本部1、各地に会館 |
僧侶・講師数(約) | 30,529名 | 非公表 | 非公表 |
教義の相違
人生観の相違:「生きる意味」
- 親鸞会: 親鸞の教えは「生きる意味」・「なぜ生きる」の答えであるとする。その答えは「絶対の幸福」になることであり、それは現在生きているときに阿弥陀仏の本願によって救われること(平生業成)によって達成されると説く。
- 本願寺教団: なぜ生きるの答えのような単一の問答形式で教えを体系化しない。親鸞の教えの目的は浄土への往生にあるが、現世では阿弥陀仏の慈悲に身を任せ、感謝の念仏(報恩)のうちに生きるプロセスそのものが重視される。[7]。「生きる意味」は明確な答えが見つかるものではなく、探し続けるものだとする[8]。
救済の捉え方:「他力信心」
- 親鸞会: 一念の瞬間に、阿弥陀仏の本願への疑い晴れた二種深信が立たなければ、真の救いではないと教える。この心を、他力信心、信心決定、信心獲得という。それは漸進的に救われるのではなく、救われる前と、救われた後に一念の水際がたつという。そのためにはすべての人が三願転入の道を通らなければならないとする。
- 本願寺教団: 「他力信心」は個人の努力で達成するものではなく、阿弥陀仏から与えられるものと解釈するが、そのプロセスは、継続的に法を聞く中で起こる漸進的な「心の転換」であり、特定の劇的な体験はあってもなくてもいいとする。むしろ、一念の体験を重視することは自力の「はからい」に陥るとして警戒される。救われるまでの道程である三願転入に関する解釈に統一見解がみられない[9]。
指導者の役割:「善知識」
- 親鸞会: 親鸞の教えを正しく解説できる、仏教の先生(善知識)の導きなしには誰も救われないと教えるが、親鸞会に限らず浄土真宗では教えられていたことである[10]。善知識の元祖は釈迦、次に七高僧、親鸞、覚如、蓮如と教え、会員にとって現代の善知識は高森顕徹とされるが、高森顕徹自身は「自分もいち親鸞学徒である」といい、親鸞を善知識としている[11]。
- 本願寺教団: 僧侶は教えへの案内役として尊敬されるが、究極の善知識は親鸞や蓮如であるとされる。本願寺では蓮如以降、本願寺の歴代宗主を「善知識」として位置づけている[12]が、善知識から仏法を聞くことを強調していない。
宗教実践と社会的論争
儀礼と実践
- 親鸞会: 葬儀や法事などの儀礼をほとんど重視しない。浄土真宗は「聞の宗教」であり[13]宗教実践は「聴聞」であるとし、会員は高森顕徹や講師の法話を聴聞する。この聴聞の唯一の目的は、信心決定することにある。聞法できないときには、お勤め(念仏)や諸善万行の実践を勧めている。
- 本願寺教団: 親鸞の祥月命日の法要である「報恩講」を最も重要な儀式とし、降誕会、彼岸会、盂蘭盆会など、確立された年中行事が宗教生活の中心となるが、一般的には生活の中での念仏を勧めている。しかし明治や昭和初期には強く「聞法」が勧められていた時代もある[14]。
布教方法と社会的評価
- 親鸞会: 積極的な布教活動を通じて会員数を伸ばす。親鸞会の名前を出さずに活動することに批判がある一方、入会の有無に関係なく純粋に仏教の教えに触れ、人生について考えてほしいと、仏教勉強会や哲学サークルといった親しみやすい形で学びの場を提供する。特に大学キャンパスなどでは、若者が人生や哲学について考えるきっかけになっている[15]。この布教活動において裁判で違法性が認められたことはない。
- 本願寺教団: 主に、各家庭が特定の寺院に所属する檀家制度に依存しており、積極的な布教活動は限定的である。地域や社会貢献の活動や、他の宗教団体と争いもなく、世界平和を願うなど印象は悪くない一方、「葬式仏教」「法事仏教」となり親鸞の教えを説かずに護持会費や修復費用として数十万円から百万を超える規模の「協力金」を門徒に割当ることに「坊主丸儲け」といった批判は根強い[16]。
脚注
- ^ “高森顕徹公式サイト”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ “浄土真宗親鸞会公式サイト”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ “浄土真宗親鸞会の歴史”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ “本願寺の歴史”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ “浄土真宗親鸞会の歴史”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ 井上順孝『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p210
- ^ “初めての方へ - 本願寺”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ 大谷光真 (1996). 朝には紅顔ありて. 角川文庫. p. 10. ISBN 9784043943241
- ^ 杉岡孝紀「三願転入の問題」(PDF)『印度學佛教學研究』第43巻第1号、日本印度学仏教学会、1994年12月20日、32頁、doi:10.4259/ibk.43.32、2024年8月22日閲覧。
- ^ 山本竜音, ed (1936). 香樹院師金言録. 仏教親友会. p. 7. "善知識は全因緣なり"
- ^ “浄土真宗親鸞会の教義と組織”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ 真宗研究42号澁谷晃「真宗の善知識について」
- ^ “聞の宗教”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ 富士川遊 (1937). 正信協会. ed. 新撰妙好人伝 第8編 (香樹院徳竜師). 厚徳書院. pp. 26-28
- ^ “親鸞会の声”. 2025年6月30日閲覧。
- ^ “葬式仏教への批判”. 2025年6月30日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 浄土真宗親鸞会と本願寺教団比較のページへのリンク