沿革・構造の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:14 UTC 版)
「聖ワシリイ大聖堂」の記事における「沿革・構造の意義」の解説
ツァーリ・イヴァン4世(雷帝)のカザン征服を記念して建てられた。当初、聖堂が記憶していたのは生神女庇護であり、聖堂名も生神女庇護大聖堂(ポクロフスキー大聖堂)であった(詳細は#名称・記憶を参照)。 カザン戦からイヴァン4世が帰還した年に木造で建てられ、2年後に石造での改築が始まり、5年後の1559年に完成している。建築にはバルマとも呼ばれるポスニク・ヤーコブレフが当たった。 完成時点では現在みられるような彩色はされておらず、今日見る聖堂の彩色は17世紀から19世紀にかけて施されたものである。 中央の主聖堂を、それぞれがドームを戴く8つの小聖堂が取り囲んでいる。主聖堂、8つの小聖堂のそれぞれに至聖所があり、合計9つの聖堂が集まって1つの大聖堂を形成している。 生神女マリヤのイコンには8つの光線(突起)がある星が描かれることにもみられるように、「8」は生神女マリヤの象徴である。またカザン戦の勝因となった日にちである7日と聖枝祭を祝う計8日との意味合いも込められている。8つの小聖堂が中央の生神女庇護大聖堂を取り囲んで支える構造は、8つの小聖堂が生神女に庇護される構造であるとも解釈される。 9つあるドームの全ての高さ・大きさ・装飾が異なるものとなっているが、唯一、西ファサード側から見える外観だけは、左右対称となって見える構造となっている。 のち、佯狂者ワシリイを記憶する小聖堂が加えられたことで、聖ワシリイ大聖堂の通称で親しまれることとなった。
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